「私 労働小説 ザ・シット・ジョブ」ブレイディみかこ(著)、読了。

むなしい。 読み終わって、そう思った。 こんなにむなしさとしっかり向き合うのは、久しぶりではないか。 それが追ってきても、気を逸らし続けていた。  それはいつもいつも近くにいる。 わたしの人生へ対する虚しさは、小学校6年生の時から始まっている。 私自身、シット・ジョブは若い時に割とやったのではないかな。 ののしられるような仕事ではないと思っている。その時その時で懸命にやる。でも「シット」なのだろうな。「シット」だったのだろうな。 シット。 私は英語のその意味を知らなかった。 ただ、海外ドラマを見ていた時期があったのだが、登場人物が悔しい時に「シット!」と言っていたのだけ記憶にあり。 なぜ記憶にあったのかというと、中学英語のカタカナ英語でシットは「座る」という意味だと学校で習ったからである。明らかに登場人物は「座れ!」と言っているわけではなさそうだし、悔しい時に使う言葉なのだろうとアタリをつけていた。 その時、調べてみる向上心が私にあればよかったのだが、特に人生で使いたくもないから、調べもせずに今に至る。(ドラマの中では明らかに怒っているときに使う言葉だったから、使いたくない。) それで今回、改めて調べたのだが。 シット。 shit。排泄物、くそ。人をののしるときに使う。 sit。座る。着席する。 hが入るか、入らないかで意味がかわるのであった。 そういえば、プレイもよくわからずにいた時があった。 プレイ。 pray。祈る。 play。遊ぶ。 どこの国も変わらない。 我が国、日本も7割がワーキングプアなのだそうだ。 ワーキングプアがこの国を支えている。 私はこの事実をどうやって知ったかというと、受験勉強中の若者に聞いたのだ。 小論文で出題されるかもしれないテーマ「ワーキングプア」 酷なテーマを若い人にぶつけるのだな。 この本は舞台がイギリスだが、やはり同じ割合がシット・ジョブなのだ。 以下は、あとがきからの引用である。 「英国ではこうした低賃金の仕事をしている人たちは、「自分たちはきつい労働をしているのに報われない」という意味を込めて、自らの仕事を「シット・ジョブ(クソのような仕事)」と呼ぶ。自分の配偶者を含め、英国の労働階級の人々が日常的にこの言葉をよく使うのをわたしは長年この耳で聞いてきた。 この本はノンフィクションではなく、フィクションなのだそうだ。 自...

思い出の場所の最後の日

 夏休みも終わりか。
なんだか、もうマスク姿がデフォルトな世界だから、学生さんはどうやって夏休みを満喫したのだろうかと思いながら。時々、子供たちが遊んでいるのを見るとほっとする。

散歩に行った時に親子で縄跳びの練習をしていらして。
男の子が一生懸命に縄を回して、お母さんと思われる女性が横で懸命にアドバイスしながら。夏らしくて、清々しかった。ただそれだけなのだけれど。
そこを通り過ぎてすぐ、私はすっくと立った大きな松ぼっくりを見て、写真に撮った。
立っていたのだ。ただそれだけなのだけど。
安く買った分厚いTシャツが暑くて「ヘロヘロなジーンズも今年までだな」と思いながら、イケていない自分を思いつつ帰路についた。
思ったより涼しい8月だったなと振り返る。


昨日は、色々と用事を済ませた日だった。
こんなふうに電話をもらったのは二度目だったから、人生とは面白いものだな。失ったものを時々思い出しながら、昨日はビルを見つめた。


今日は思い出が沢山あった商業施設が閉館する日だ。

「あなたは何か持ってるから、最後まで作りなさい」と、先生に言っていただいた。私に「何か」があると言って下さったのは人生で二人目か。
もしかしたら、三人目かもしれない。書道の先生にもそんな感じのこと言われたことがあった。絵もいまだによくわからないけれど、書道もよくわからなかった。
「何か」って何だろうな。何が何だろうな。
私は自分のこと、いまだによくわからない。
自分のことが知りたいが自分がよくわからない。
でも、何かがそこにあるのなら、そのご縁に今度こそ乗ってみようと思った。


いろんなご縁があったのに、色々と逃して、通り過ぎた。
その時の自分には早かったのだろうと、「何」もわかっていなかったのだろうと振り返る。

「予防接種は受けないのか」とよく聞かれる。
わからないが、受けないことが私なりの生への執着だと思う。
もしかしたら、執着がないのかもしれない。総合的に考えても受けようと思わなかったし、もし患ってしまったとしてもそれが死ぬ理由になるなら、それでいいと思った。ほとんど人に会わず、外に出ない私だから感染するかも、よくわからない。失うものは何もない。

かかってきた電話で「私は、これを教える使命があるのだと思っている」と先生が言った。版画の先生だ。その言葉には惹かれた。私の使命とはなんだろうと考えた。
「絵は教えても、教わってもいけない」と先生がいう。「こちらがやり方だけ教えて、あとは個人で世界を作っていくのだ」と。
私は絵が好きなのか、それもよくわからずにいて、自分が何なのか、ずっと片付けを続けた。最終的に残るものが自分にとって大切なものなのだろうと推測したからだ。

インクもペンも捨てた。板タブも使ってないから捨てた。
パソコンは好きだ。今もこうして使っている。大好きなソフトは使えなくなったけれど、まだ動いてくれるうちのmacちゃんとは、まだ付き合いが続くであろう。
絵画に関する道具は捨ててはならないと捨てた後にわかった。私は相当のアホで。
そうやって、大切なものが見えてきた。

今日は思い出の場所が一つ消える。
新しい何かが始まるということだとも、わかっている。
消えて、それが私にとって「何」だったのかを知るだろうな、きっと。
「何か」がわかる。

そこは「足りない何かを見つける場所」だったと思った。
描きたくても描けない。そんな時の足りない「何か」がいつもあった場所だった。補充しにそこへ行っていた。よく、そこで展覧会を観た。
私は新しい場所を発見しに行かなくてはいけない。

「ありがとうございました」
ノートにそう書いて来た。
本当にありがとうございました。
エレベーターも、雲梯していたハムスターも、数学の計算をしたあの日も皆、一階にいるあの人も、たいせつな思い出になった。
過去完了形だ。


新しく風が吹いて、また、私も新しく何かを作る。




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