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「胡乱な聖典の信じ方」藍上央理(著)、読了。

私は極度の怖がりである。 ホラー映画なんてもってのほかだ。 自分から進んで観ることはない。 一度、昔つきあっていた人とジェイソン(このシリーズは沢山あるので、この中のどれを見たのかは記憶がない)を付き合いで見た。 その彼はそれを笑って観ていたから「この人のことは一生、理解できないだろうな」と思った。 当然、うまくいかなかったのでお別れした。 その彼は一人でもジェットコースターに笑いながら乗っていた。 「怖さ」を楽しむことが出来る人なのだと思う。 なんだか羨ましくもあった。 過去に一度「ホラー小説」と呼ばれるものを読んだことがある。 本当に一冊だけだ。 入院していたときに、お隣のベッドのご婦人が貸してくれたのだった。 これもどちらかというと付き合いで読んだ。 長期の入院だったので生活に娯楽がなかったのもあるし、ご婦人はとても本が好きな方だったので、本好きが勧めるホラーとはどんなものなのか読んでみたいという好奇心もあった。 とにかく 「面白いわよ!そして、、、怖いわよ、、、最後らへんを夜、思い出すのよ、、、」 と勧めてくださったのだ。入院の荷物の中にたくさんの本をお持ちだった。 そのホラー小説は「ぼっけえ、きょうてえ」岩井志麻子(著)である。 ご婦人が語った怖さを私は感じられずに終わった。 私は、なんとなく俯瞰して「物語」として読んだので、感情移入的なものができなかった。 ただひとつ、表紙の絵だけは怖かった。 怖いと感じたのだった。 それだけは覚えている。 もし怖い絵を描くなら、あれくらいの気迫が伝わるもの描きたいって思う。 曲がりなりにも私は日曜画家だからな。 そんな私が人生二度目のホラー小説を読んだ。 それがこの本である。 滅多に外出しない私が、用事があって外に出た折に、図書館へ寄った。 地下鉄の中で読む何かが欲しかった。 じっくり本を選ぶ時間などない。もう地下鉄に乗らねばならぬ。 ぎりぎりに家を出たからだ。 体調が悪い時はぎりぎりまで横になっている私だ。 「新着本」と書かれた小さな棚から「文庫だったら軽いし、薄い本だから読めるだろう」と何も考えずに借りた。 地下鉄電車の中で早速読み始める。 「ホラー小説ではないか!!!!!!!!」と心の中で叫ぶ。 なんと舞台は私の住む九州であるし、。地下鉄もでてくるのか! 天神も博多も、地名がでてきていますけれども? とにかく驚い...

小磯良平展 幻の名作《日本髪の娘》、鑑賞

私にとって、小磯良平さんは 「絵にしにくい構図を描く人」である。 いま、私はコツコツとパースを勉強している。 もちろん独学だ。 テキストは普通に書店に販売されている本だ。 買うには高い本であったが、丸善がビニールをかけずに内容を見れるように書架に置いてあったので、内容を確かめてから購入した。 三点透視図はなかなか描く機会がない構図だと思っている。 漫画やアニメならよく見かける構図ではあるが、絵画はあまり見かけない。 見かけたとしても「良い作品か?」と見るにはとても難しい。 自然な感じがしないからだ。 人物のパーツの中にも三点透視図が出てくる。例えば、足を奥にひっこめているなど。椅子に座っている人などの足はこれだと思う。(私はアカデミックの教育を受けていないのではっきりとは言えないが) この構図を描くのは画力がいる。 この目で、自然に見えてしまう三点透視図を見たかった。 家計をやりくりするのに、毎月何かと文化に触れる機会をうなってしまう私ではあるが、ここはわが町に展示が来た時に見ておかないと、多分この先、もう見ることはないだろう。 会期終了が近いせいもあり、図録は売り切れていた。 2200円か、図録にしてはお安いのではないか。 欲しかった。 でも、仕方ない。 割合としては人物画中心で、静物画が少し。という内容の展示であった。 「ああ!この構図は描くのがむずかしい」 という作品がいくつもあった。 《和服の婦人像》などもその一つだ。身を乗り出しているご婦人のからだ手前と奥に行く、その描き分けが難しいと思う。 そして、やはりプロでいらっしゃると思った。 私は写実作品の鑑賞が苦手だと思う。。 生々しすぎるからだ。 写実作品でも苦手じゃない作品も、もちろんある。 写実作品の中でも見て疲れる作品に、たまに出会うことがある。その作品は、未熟だと思う。自然にこちらに入ってこないからだ。写実だが、写実の度がこえると生々しくて現実っぽくないから。つまり、不自然に見えるのだ。 小磯良平さんの作品はそうではなかった。 生々しくなる手前で止めてあり、全体がギラギラとしてくどくない、しっかり強く描くところと抜いて描くところ、両方のバランスがとれている。 私のようなアマチュアであると、それがうまくできていないことが多い。 だから見る側として、見るのに疲れる作品になりがちになってしまうが、プロは違う...

「異端の奇才 ビアズリー」河村錠一郎(監修)、読了。

これは、小説や伝記などではなく、展覧会の図録だ。 知り合いから 「図録って何?」 と聞かれた。 図録は、美術館や博物館に展示を観に行く習慣がない人には馴染みのない言葉かもしれない。 図録とは、簡単にいうと展示品の写真や解説が載っている書籍のことである。 解説は当然、その展示に詳しい研究者や学芸員が執筆しているので、その作品や作家のことを詳しく知りたい場合はこれを読むと一番勉強になる。 展覧会にもよるが、大体3000円くらいで展覧会グッズ売り場に売っていたりする。 今回のこのビアズリーの図録は出版社から出版している書籍なので、なんと書店でも購入できる。この頃、こういう形の図録を見かけるようになった。 以前は、展示があっている会期中やその後、その美術館のショップで販売していることが多かった。 (このところ、美術館も指定管理者制度という形で運営しているところが増えているようだから、その影響だろうか。それは関係ないのかな、、、??) 私は、ビアズリーを知らなかった。 知っていたといえば知っていたが「サロメの挿絵の人」という程度の認識であった。 友人が中学時にビアズリーに感銘を受けて、それに似た絵をかいたという話を聞いた。 なぜそんな話になったのかというと、そもそもビアズリーから始まった話ではない。 私が「「おどる12人のひめさま」の挿絵を描いた、エロール・ル・カインの展覧会へ行きたかった」という話を友人にしたからであった。 遠くへ行く3条件(天気、元気、現金。この条件は『 ゴリパラ見聞録 』によるもの)が揃っていない私は、東京まではいけないのだが。 とにかく、私はその絵本を見た時に「この人の絵を見てみたい!!」と思ったのだった。 それで画集が出版されていないか調べると、画集みたいなものが目についたので、図書館で借りてみたのだが、何というか、、、この方の印象は「アーティスト」というより「職人」であった。 とにかく、その依頼内容にあったものを描ける職人なのだ。 独特ではあるが、ご本人の画風に統一感のない感じであった。 これはあくまで私の印象なのだが、エロール・ル・カインという人の個性を感じ取れなかった。 とにかくエロール・ル・カインの作品の中で好きなのは「おどる12人のひめさま」なのだった。(この本はさくらももこさんも絶賛している。それくらい素敵な挿絵なのだ!) そんなエロール...

「生誕100年 山下清展 -百年目の大回想」鑑賞。

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野に咲く花のように 風に吹かれて 野に咲く花のように 人を爽やかにして そんな風に僕たちも生きていけたら素晴らしい 。。。。。。。。 ドラマで流れていた曲である。 展覧会を見て、山下清さんという人は本当にそんな人だと思った。 私にとって、山下清さんはドラマの登場人物であった。 『裸の大将放浪記』というドラマ。 ランニングシャツに短パンでリュックを背負い、日本各地を訪れて、ちぎり絵を描く清さんのドラマ。 芦屋雁之助さんが演じていらした。 最近だと、ピンクドラゴンの塚地武雅さん。 現実にいらっしゃるという風に思えず、私の中ではドラマの登場人物であった。 私は、ドラマで「山下清」という画伯を知っていても、その作品をこの目でみたことがなかった。 今日、初めて山下清さんの作品を見たのだった。 ドラマに出てきた画伯の絵を、こうして見れる日が来るなんてなんだか本当に夢のよう。 架空ではなく、実際に山下清さんという人がいたことを実感した。 山下清さんのちぎり絵を始めた頃は、本当に大雑把な紙のちぎり方であったが、少しずつ少しずつ変わっていって。 年数を重ねていくと、、、 細く 小さく 紙をちぎって、表現に深みが出てきて、それでもう10年立った頃にはちぎり絵に見えない、筆で描いたような深みのある作品に仕上がっていた。 「円熟」とはまさしくこのことを指す言葉ではなかろうか。 感動した。 栗 菊の花 桜島 長岡の花火 私が印象に残っている作品はそんな風だった。 そこには「美しく描きたい」「この花はなんて美しいのだろう」という気持ちが感じられた。 私はどの人の作品でもそういう気持ちが見える作品に出会うと本当に嬉しくなる。 だから、嬉しかった! 見にきてよかったと心から思った。 最初の頃の作品は細かい明暗を表現されていなかったのだが、だんだんその明暗が表現されるようになっていた。 デッサンを量をこなしてきた方ならわかると思うのだが、描いていると、そのうち対象物の明暗がうっすら見えてくるのである。 量をこなすことにより、山下清さんも見えてきたのだと思う。 それがとても素敵だった。 菊の花のちぎり絵が印象に残っていて。(ハガキがあったら買おうと思っていた) 学園の先生からは「もっと花瓶らしく」というような助言をいただいたようであるが、私はこの作品はこの花瓶の形に描いたからよかったのだと思った。 円...

「そぞろに描く アジサカコウジインタビュー」藤本明宏(著)、読了。

大好きな作家!! アジサカコウジさん〜!! 昨年、初めて個展に伺ったときは、本当に浮かれてしまった。(もちろん、今年も浮かれてしまった) ご本人様がいらっしゃるとは思わなかったのだ。 ギャラリーに作家さんが会期中は常に在廊している場合もあれば、土日などの人が多そうな日のみ在廊していることもあり。 アジサカさんは後者だった。 私は昨年よりこの書籍をせめて買いたかった。 「せめて」と言うのは、書籍だけではなく、アジサカさんの作品も買いたかったからだ。 昨年は、アジサカさんが在廊をしているとは知らず、絵を見にいき、ご本人様自ら声をかけてくださった。 「おっ?2回目かな?」 と言われ 「初めてです!」 と返した私。 誰かと似ていたのだろうか、笑!! 今年はアジサカさんが在廊している時を狙って行った。 本を購入して、その場でサインを書いていただいた!! 「アジサカさん!!サインください!!」 今日から、この本は大切な宝物になった!!!!!! とにかく憧れの人なのである。 この本は、アジサカさんが執筆したのではない。 藤本明宏さんという方がアジサカさんにインタビューした内容だ。 (インタビューをした方もかなりのアジサカさん好きに違いない!!) 私は最初にこの本を見た時、タイトルがすごくいいなって思った。 読むと確かに、アジサカさんは「そぞろに描く」なのだった。 「そぞろ」という言葉は学生時、古文で皆、習ったのではなかろうか。 改めて意味を調べてみると、、、、 そぞろ( コトバンク より引用) 1  これといった理由もなしにそうなったり、そうしたりするさま。なんとなく。 2  心が落ち着かないさま。そわそわするさま。 本によると、アジサカさんは自然に生活の一部として絵を描き、そして描かないと落ち着かないのだそうだ。 ぴったりな言葉だなと思ったし、私もそうなりたいなとも思った。 「息するのと、同じなんよ。絵を描くのは、ご飯食べたり、トイレ行ったりするのと同じ。」 アジサカさんはそうおっしゃっていた。 この本は、アジサカさんが質問に答える形式で綴られているのだが、バリバリの九州の方言で綴られてある。つまり、文章チックな言葉ではなく、日常の話し言葉なのだ。 そんなで、私も方言で感想を書いてみたいと思ってしまった。 九州の言葉だったから、よく聞く言葉で親しみがますます増...

「目の見えない白鳥さんとアートを見にいく」川内有緒(著)、読了。

「絵はいいよね。すぐ見てわかるから。文だと読むまでわかってもらえない。」 同級生がいつだか言っていた言葉だったと思う。 要は、視覚的にすぐ察知できるから伝わりやすくていいよね!っていうことなのだろう。 この本に出てくる白鳥さんは目が見えない。 でも、白鳥さんは美術館へ行き、作品を鑑賞する。 体の弱い私は横になって、昨日「名探偵コナン」を公式youtubeで見ていたのだが、私たちの脳はなんと思い込みでできているのだろうかと思ったのだった。 同じ大きさのバームクーヘンが並べ方で、片方は大きく、片方は小さく見えたのだった。犯人はそのトリックを使ったのだが。 頭の片隅にあった名探偵コナン。 そして、この本を再度読み始めると、著者の方が書いていた事にも、納得がいって。 今まで生きてきた経験と知識を総合して、私たちがそのものの価値を判断しているとしたら、今、世の中が「良い」と言っているものは本当に良いものなのかと疑問を持ってしまう。 これは「高いものは美味しい」という勝手な思い込みもそうじゃないのか。 自分が食べたいものが美味しいものであって、高いからと言って美味しいものとは限らないし。 個々の価値基準の難しさよ。 この本は色々な問題や感性が書かれていて、著者の有緒さんもすごい人だが、友人のマイティ、白鳥さんもすごい人だった。 私は語彙が少ないのですごいことを本当に「すごい」という言葉でしか表現できないのだが、とにかく面白いのだ。そして、優しい。 自信を持って「また読みたい」と言える本だ。 白鳥さんの言葉や価値観に元気をいただいた。 著者とその友人たちはコロナ禍に入ると、白鳥さんと美術館へいけず、オンラインで美術館を巡ることを白鳥さんに提案するのだが、白鳥さんはそれを断る。 著者としては、声を出して作品について伝えたり、感想を言い合うことは目の見えない白鳥さんにとってはオンラインでも同じだろうという考えであったのだが。 彼は人と対面し、その場の空気や五感で感じるものも大切にしており、オンラインで言葉のみの接し方では自分が希薄になっていくように感じるとのことだった。 私はそれを読んだとき、ハッとした。 私はここの家へ一人で引っ越してきてから、独り言が多くなった。しかもコロナ禍で家に一人でいることが増えて、さらに独り言が多くなったことを感じていた。 ご近所から見たら「頭のおかしい人...

筑後川の暗い過去(尾花さんの茶色い草の絵)

私は金曜日に、 尾花成春さんの絵を見たブログ を綴ったのだが、筑後川の暗い部分を今日知ったのだった。 これは、九州の筑後方面の方々なら知っていた情報だったのだろうか。 筑後川中域では江戸時代から奇病が発生していたらしい。 そして、つい最近それが制圧されたらしいが、インターネットで調べるとまだ日本の一部や東南アジアでは生息しているところもあるとのことであった。 奇病撲滅への長い道のり:国土交通省 筑後川流域とミヤイリガイ 病院へお薬をいただきに行った時に、「筑後川の茶色の草の絵が怖かった」という小学生のような感想を医師にこぼしたところ 「昔、筑後川はね、 日本住血吸虫というのがいて、寄生虫に感染する人がいたんだよ。小さな貝に寄生している虫なんだけれど。それを駆除するために除草剤なんか撒いたりしたんじゃないかなぁ。だから、茶色の草なのかもしれないよ。あなたがそんなこと言うまで 日本住血吸虫のこと忘れていたよ。」 尾花さんが描く筑後川のあの茶色の草は、、、 それで草は茶色だったのかもしれない。 私はギャラリートークなども聞きに行ってないので、詳細は知らないけれど、そんな歴史の背景があって筑後川を描いたというならば、芸術作品という価値と合わせて、資料として残すべきかもしれないと思ったのだった。 何より、医師のその話を聞いたとき 「尾花さんは寄生虫がいるところに行って描いていたのか?」 私は会った事もない尾花さんの体を心配したのだった。 尾花さんが川の中域で描いたのかは私は知らないが、私だったら、上流・下流でも描く度胸がないだろう。 描きたいと思い、絵が描けるということは幸せなのだ。 たとえ、生みの苦しみが伴おうとも、自分が描かねばならないと自身に根拠のない使命を感じたものは描かねば生きていけない。 そのくらいの気迫が作品に感じられたら、その作品は成功なのであるが。 作品を見たとき、私の鈍感な心は震えなかったけれど、尾花さんの作品群はスッと入ってきたから、違和感がないのだと思う。 違和感がないというのは、作品の製作者に技術があるという事だと思っている。 尾花さんの筑後川シリーズは、私には怖い絵だった。 美術館のサイト にある解説によると「 また、1972年から尾花は15年以上にわたり筑後川の草むらを描き続けました。その背景には、自分を生み育ててくれた筑後平野の根源に迫りたいと...

「ちくごist 尾花成春」展、鑑賞。(@久留米美術館)

私は個人的に茶色を使う作品が苦手だ。 描くのも見るのもどちらも茶色は苦手だ。 唯一、茶色を使っているのにかっこいい!!と思う画家は、アジサカコウジさんだ。 茶色でいいなと思う大御所だとゴーギャンだろうか。 でも、シーレはすごく苦手だ。 私の中の茶色は「死期」「衰退」を思わせる色なのだった。 たまに、ふらっと入った画廊ですごく暗そうなオーラが漂う作家さんで、絵が茶色だったりすると「この方は大丈夫なのか?病院に行かれた方がいいのではないか?」と真剣に心配してしまうのだった。 それくらい私の中では茶色というのは「死期」「衰退」と直結したものなのだった。 洋服でもアースカラーが流行っていた時があったが、若い人が茶色の服を着ているのをみると「若いんだから、土の色ではなくて綺麗な色を着なさいな。もったいない」 と余計なお世話なことを思っていた。 でも、それは最近のことである。 私が歳を取ったからそう思ったのだ。 実際、私は若い頃、茶色(ベージュ、アンバー)をよく着ていた。 年齢を重ねると「綺麗な色の服を着たい」とそう思うようになった。 それは自身が茶色になっていっているからかもしれない。 やはり、「衰退」なのであった。 尾花茂春さんの展覧会を見に行った。 福岡県、郷土の画家である。 うきは市のご出身で、息子さんが同市に尾花さんの作品を展示している画廊を経営なさっているようだった。 今回の美術展は、私の自宅からは遠い美術館だったので、電車や順路などを調べていたら、そのことを知った。 私はこの展覧会のフライヤーを見た時、正直 「あまり見たくないな」 と気が進まなかった。 それは茶色の絵だったからだ。 うねうねと何かが描かれていて、それがひどく不気味に思えたのもあった。 そのうねうねは筑後川の草だった。 緑ではない、茶色で草が描かれているのだった。茶色は草が枯れている色だ。 やはり私には「死期」「衰退」を感じるのだった。(実際、この筑後川のシリーズは、川の開発が始まって、草が無くなったようだ。) 美術館の前にあった看板は、茶色の草ではなく黒背景の石の絵だった。私はフライヤーの草の絵より石の絵が好きだと思った。実物の絵も見たけれど、石の質感がきちんとテクスチャで表現されていて、見ていてしっくりきた。 これは好みなのだろうが、石の絵の方が好きだ! こちらに絵がスッと入ってくるというのは、...

消えていく建物(ギャラリー)

3月に、 3月末でギャラリーがおしまいになるときいて、行ったことがない知らないギャラリーに行った。 「ギャラリー」と聞くと、どこかの建物(ビルやホテル)などの1階などを私は想像していたのだが、そこはビルが丸ごとだった。 そのビルはもう古くて、取り壊すとのことだった。 私は絵を描くけれど、その業界の者ではないので、そんなギャラリーがあること自体知らなかった。 知り合いは業界の者であるので、そこを知っていたのだろう。 その人が教えてくださった。 私と知り合いは、お互い美術が好きなのに美術のことはあまり話さない。知り合いは業界の者ゆえに守秘義務があるのもあるだろうし、美術が好きな私ならもう知っているだろうという前提で話さなかったのかもしれない。 いや、ただ単に話さなかっただけで。 そこが最後だから、思い出して教えてくれたのだろう。 運がいいのか悪いのか、そんなでそこを知ることが出来た。 ギャラリーとしては最後の日に、私はそこのビルを訪れた。 「マンション」とは名ばかりの、私が住んでいるビルにそっくりだ。 それはそれでショックだった。 エレベーターがない。 (そっくりだ!) 作りも昔の構造だ。 (本当にそっくりだ!!) それまでどういう風に運営されていたのかは知らないが、ビルの一室一室が各々ギャラリーになっていて、ドアが開けられていた。 最初は入って良いのか悪いのか分からずに、声をおかけしてから入って、作品を見せて頂いた。 展示しているアーティストの方々に聞くと 「ドアが開いている部屋は、入っていいんですよ〜!」 とのことだった。 その日、私はドアが開いている部屋を見て回った。 初めて来て、その日が最後とはちょっと悲しい。 ビル自体は8月までは壊さないとの事。 ただ、ギャラリーとしては5月が最後なのだった。 言うまでもないが、街にあるデパートのようなギャラリーとは違った。 普通の部屋なのだが、普通の部屋じゃない空間になっていた。 普通に絵を展示している部屋もあれば、部屋自体の空間を作品として使用している部屋もあった。 もう壊されるということで、天井に立体物がくっつけてあったり、壁に絵が描かれていたりと面白い作品群だった。パフォーマンスが作品だったりもして。各部屋でジャンルが違うものをみることが出来た。 このような作品群を見ると、私は自分の表現の狭さに驚いたりする。 空間その...

ミュシャ 展と。みんな絵が好きなんだなぁ!

 知り合いの方々が市の美術館の市民ギャラリーで作品の展示をしているというお話を聞いて、観に行くことにした。 魔の5月。 私にとって、5月は半分は寝込んでいる月だから、魔の5月。 「今日は行ける!」 そう、体が動く日に行くしかないと思って、18日に思い立って「えい!」と行ってきた。 その作品展は、ヌードデッサン をなさっている教室の仲間だそう。 ギャラリーに行くと、和気藹々としていた。 そう言えば、私にはこんな仲間がいないなと思った。孤独を私に訴えてくる友は「友達はいない。」と私に言ってくる(私は友達じゃないらしい)。そう、あの友には友達はいないらしいが仲間がいるなぁ、羨ましいなぁと、そんなことを思い出しながら。 色々な絵があった。 上手に見せたい! 楽しく描いた! とにかく描きたかったんだよ! 作品を見ていると、作品から色々な気持ちがこちらへなだれ込んでくる。 そして、どの作品を見ていても 絵を描くのは楽しい!!! という気持ちは私に伝わってきた。 どの人もみんな絵が好きなのだなぁ!! 市民ギャラリーで展示している作品はたまにプロもいらっしゃるが、趣味で描いた作品がほとんどだ。 みんな、絵が好きなんだと、とても嬉しくなった。 素直に「素敵なグループ展でした。見に来てよかったです」と、受付をなさっていた方に感想を伝えた。 丁度、ミュシャ 展が企画展で開催されていたので、それも鑑賞してきた。 私、個人的には、晩年のミュシャ の油彩の大作を見たかった。ほんの少し、それが展示されていないか期待したけれど「やはりそういう作品は国外には出品しないよな」と。 調べたのだが、2017年国立新美術館にやってきていた!! それ、見たかった、、、。 しかしながらグラフィックは、言わずもがなカッコよくて美しくて。デッサンや依頼を受けて描いたという油彩の肖像画もすごく上手かった。 最近の美術館は「写真はオッケーです」という展示が多くて驚く。 小心者なので、あまりシャッター音のしないアイフォン のLiveモードでこそこそと数枚作品を撮影した。 こういう写真は案外、帰宅した後に見直したりしないが、今回は帰宅後に何度も見た。 私は虎の版画を昨年、作り終えることができず、それが心残りだった。 それで、最近は木版画に手を出している。 「絵も描かなくてはいけないのに、何をやっているんだ、私!」そ...

青木繁と坂本繁二郎

昨年、行っておきたい展覧会があった。 でも、忙しさに感けて行かなかった。 新年になって大慌てで、もうすぐ終わってしまう展覧会へ行ってきた。 私は昨年より人物画を描きたかった。 青木繁。 私の中では人物画を描くイメージの画家だった。 年末年始で家計に大赤字を出しつつも、なんとかやりくりして捻出した予算で市外へ行く。 ショックだった。 当初の予定では「人物がどの様な色味でどの様な構図で描かれているか」というのを重点的に見てくる予定だった。 私は自己中心な人間なので、自分が人物画を描くために見に行ったのだ。 だから、技法や構図、色を重点的に見ようとした。そういう風な見方を今回はしようとした。 しかし、観賞後はショックを受けていた。 作品から、作品を描いた人の気持ちが見えたからだ。見ているうちに技法や色などより「気持ち」の方が私の中に流れ込んできた。 青木繁は人生の中でどん底(多分、どん底だと思う)を味わった時に、九州に戻ってきて転々と九州を回って絵を描いた人のようだ。 そのどん底の年から先に描かれた絵は、もう魂が抜けたような絵だった。 絵を見ても「ただ描いた」という雰囲気が作品の画面全体から漂っていた。 ギラギラした生命力のようなものがすっかりなくなって、明らかに手を抜いていると見える部分もあった。 一方、坂本繁二郎は、晩年の作品にも何か情熱を感じた。描くことへの、モチーフへの執着が見えた。一見、パールトーンの静かな絵に見えるけれど、そこに情熱を感じた。「新しいものを描きたい」という情熱が画面の中に必ずあった。 正反対のような二人の絵に、なんだか悲しくなってしまったのだった。 私はいつまで情熱を持っていられるだろうか。 人間というものはいつか飽きる。何に対しても、だ。それを思った時、晩年まで情熱を感じる絵を描いた坂本繁二郎がすごくすごく素敵な画家に見えた。 私は美術館へ行く前まで、人物画を描くという情熱が消えてしまっていた。 でも、やはり、描こうと思った。飽きながらも、足掻き続ければ何か見えるに違いない。そう思う。 お二人とも凄く上手かった。 ただそれだけは言える。 デッサンも展示されていたが、木炭という画材の可能性をさらに感じた。 私はまだまだ木炭という道具を使い慣れていない。 サラりと描いたクロッキーも凄く上手かった。 私の感想は私だけの印象なのかもしれないが、それに...