「生誕100年 山下清展 -百年目の大回想」鑑賞。
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野に咲く花のように
風に吹かれて
野に咲く花のように
人を爽やかにして
そんな風に僕たちも生きていけたら素晴らしい
。。。。。。。。
ドラマで流れていた曲である。
展覧会を見て、山下清さんという人は本当にそんな人だと思った。
私にとって、山下清さんはドラマの登場人物であった。
『裸の大将放浪記』というドラマ。
ランニングシャツに短パンでリュックを背負い、日本各地を訪れて、ちぎり絵を描く清さんのドラマ。
芦屋雁之助さんが演じていらした。
最近だと、ピンクドラゴンの塚地武雅さん。
現実にいらっしゃるという風に思えず、私の中ではドラマの登場人物であった。
私は、ドラマで「山下清」という画伯を知っていても、その作品をこの目でみたことがなかった。
今日、初めて山下清さんの作品を見たのだった。
ドラマに出てきた画伯の絵を、こうして見れる日が来るなんてなんだか本当に夢のよう。
架空ではなく、実際に山下清さんという人がいたことを実感した。
山下清さんのちぎり絵を始めた頃は、本当に大雑把な紙のちぎり方であったが、少しずつ少しずつ変わっていって。
年数を重ねていくと、、、
細く
小さく
紙をちぎって、表現に深みが出てきて、それでもう10年立った頃にはちぎり絵に見えない、筆で描いたような深みのある作品に仕上がっていた。
「円熟」とはまさしくこのことを指す言葉ではなかろうか。
感動した。
栗
菊の花
桜島
長岡の花火
私が印象に残っている作品はそんな風だった。
そこには「美しく描きたい」「この花はなんて美しいのだろう」という気持ちが感じられた。
私はどの人の作品でもそういう気持ちが見える作品に出会うと本当に嬉しくなる。
だから、嬉しかった!
見にきてよかったと心から思った。
最初の頃の作品は細かい明暗を表現されていなかったのだが、だんだんその明暗が表現されるようになっていた。
デッサンを量をこなしてきた方ならわかると思うのだが、描いていると、そのうち対象物の明暗がうっすら見えてくるのである。
量をこなすことにより、山下清さんも見えてきたのだと思う。
それがとても素敵だった。
菊の花のちぎり絵が印象に残っていて。(ハガキがあったら買おうと思っていた)
学園の先生からは「もっと花瓶らしく」というような助言をいただいたようであるが、私はこの作品はこの花瓶の形に描いたからよかったのだと思った。
円柱のような花瓶は底の線は丸みを描かないと円柱に見えない。その花瓶は円柱らしさに欠けていた。でも、その円柱らしさがないのが花と全体の雰囲気に合っていると私は思った。
いつも思う。「らしさ」というものは、その人だけが感じた「らしさ」でもいいのではないかと。
大衆が思う、そのものの「らしさ」は、大衆が勝手に思っておけばいい。
こんな風に素敵な感受性を持つ人は、ずっとその素敵な感性を崩さないように、周りがしてあげたい。
そんな風にそんな人を見守っていられたらいいな、と私自身、思う。
いかに上手く描くかという技術だけを追い求めるものが創作や芸術ではないと私は思っている。
本当にまだ小さい時に作ったのだろうと思う作品も、素敵だった。
見事にシンメトリーなデザイン画のような蜂、セミのちぎり絵。
この才能が後世に作品として残っていてよかった!
とても古いのに、よく綺麗に保管して、私たちに見せてくださって、ありがたいと思った。
戦争を題材にしたちぎり絵もあった。
あんな暗い主題で作品を作るなんて。それも驚いた。
私の作品は「暗い」「怖い」と言われる。(この頃はその点に気をつけて、希望が持てる作品をと思って作っている。)
山下清さんも、こんな暗い作品を作っていらっしゃるなんて。しかも社会的な作品だ。
私は2年前、戦争についてラフをかいたが、結局、作品として形にしなかった。
怖い作品は怖いなりに、それなりのエネルギーを私から奪うのだ。
その画面に怖い生き物が潜んでいるような作品に作り上げねば、人に戦争はやってはいけないという怖さが伝わるものが描けないであろう。
山下清さんの戦争についての作品は間違いなく「戦争はやってはいけない」と思わせる怖い配色であったし、作品としても見応えがあった。
ドラマで見た清さんは日本をずっと放浪していたのだが、キャプションを読むと本物の清さんも放浪して作品を作りまくった人だった。
それまで作品にサインがなかったのに、有名になった後から、作品の中にサインが入るようになった。周りに「サインを作品に書きなさいと言われたのかな?」と思った。
有名になると贋作が出てくることもあったであろうし。
ヨーロッパに行って作った作品は、もう別人の作品のように見えた。パース等の技術はうまくなっており、建物等のペン画がほとんどで、初期の頃にあった花や虫、身近にある風景などを愛でていた気持ちや素朴さが画面から感じられなかった。
晩年は、陶器などの作品も手掛けていらして、それがとても素敵だった。
陶器を作る方が教えると、山下清さんはすぐに絵付けができるようになったそうだ。
そういう才能をお持ちだったのだろう。
カタツムリ、可愛かった。
大皿の大胆な模様が素敵だった。
蝶や花。
私は建物を描いている作品よりも花や昆虫、身近にある小さなものへ向けた愛のある視線、そんな作品が好きだ。
晩年と言ったが、晩年というには早すぎる年齢で亡くなっていらして驚いた。
49歳。
どうだろうか。
早いのか、遅いのか。その人にとってはどうなのだろう。
私は明日死んでも、もういいなぁ。
体は以前と変わらないけど、今、幸せだな。
いや、まだ、やりたいことがあるかなぁ。
見られたら恥ずかしい思い出の品などは処分しておきたいな、笑
いつものことながら、「この作品がハガキになっていたら買う!!」と思って、展覧会のグッズ売り場に行くのだが、私がいいと思った作品は大概、ハガキになっておらず。
ここら辺が世間の方々との大きな隔たりを作っている私の感性なのだと思う。
私は媚びたいわけではないが、大衆が思う美しさを知りたいと思う。
みんなが「美しい」「希望が持てる」と思うような作品をみんなに見てもらいたい。
この頃、そう思う。
でも、私は悔しいけども、私が描きたい物しか描けない。
努力はしたい。
グッズ売り場でハガキを見ると、世の中の人達がどんなものに美しさを感じ、好きなのかということがわかる。
いつも「勉強になるなぁ」と思いながら、どの作品がハガキやグッズとして販売され、どれが一番売れているかなどを見るのだった。
私は「栗」と「菊の花」がないかなぁと思って、ちょっと期待していたのだが。
ハガキにするにはパッとしない作品なのかもしれない。
色調がはっきりした作品や有名な作品がハガキとして売られていた。
私は油絵具で描いたという作品「」というハガキを一枚買った。
「桜島」も買おうかと思ったが、ハガキにしてしまうとなんだか、あの感動が逆に忘れてしまいそうで、買うのをやめた。
絵を描くこと。
ずっと続けたい。
続けた先を見てみたい。
そうだなぁ、もう少し生きてどうなるのか、見てみたい気もする。
恩返しもいっぱいしたいから、まだ死ねないな。
私は新春に参加するグループ展のf30号の絵筆をもう止めて、次の絵に取り掛かる準備(資料を集めたり)を始めている。
私も素敵な作品を作りたい。
私もずっと続けたい。
続けることの凄さ・難しさ。
ずっと絵を描くことが好きでいる気持ちを持ち続けること。
山下清さんの作品を見て、大事なことに気づかされた。
ありがとうございました。
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