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「胡乱な聖典の信じ方」藍上央理(著)、読了。

私は極度の怖がりである。 ホラー映画なんてもってのほかだ。 自分から進んで観ることはない。 一度、昔つきあっていた人とジェイソン(このシリーズは沢山あるので、この中のどれを見たのかは記憶がない)を付き合いで見た。 その彼はそれを笑って観ていたから「この人のことは一生、理解できないだろうな」と思った。 当然、うまくいかなかったのでお別れした。 その彼は一人でもジェットコースターに笑いながら乗っていた。 「怖さ」を楽しむことが出来る人なのだと思う。 なんだか羨ましくもあった。 過去に一度「ホラー小説」と呼ばれるものを読んだことがある。 本当に一冊だけだ。 入院していたときに、お隣のベッドのご婦人が貸してくれたのだった。 これもどちらかというと付き合いで読んだ。 長期の入院だったので生活に娯楽がなかったのもあるし、ご婦人はとても本が好きな方だったので、本好きが勧めるホラーとはどんなものなのか読んでみたいという好奇心もあった。 とにかく 「面白いわよ!そして、、、怖いわよ、、、最後らへんを夜、思い出すのよ、、、」 と勧めてくださったのだ。入院の荷物の中にたくさんの本をお持ちだった。 そのホラー小説は「ぼっけえ、きょうてえ」岩井志麻子(著)である。 ご婦人が語った怖さを私は感じられずに終わった。 私は、なんとなく俯瞰して「物語」として読んだので、感情移入的なものができなかった。 ただひとつ、表紙の絵だけは怖かった。 怖いと感じたのだった。 それだけは覚えている。 もし怖い絵を描くなら、あれくらいの気迫が伝わるもの描きたいって思う。 曲がりなりにも私は日曜画家だからな。 そんな私が人生二度目のホラー小説を読んだ。 それがこの本である。 滅多に外出しない私が、用事があって外に出た折に、図書館へ寄った。 地下鉄の中で読む何かが欲しかった。 じっくり本を選ぶ時間などない。もう地下鉄に乗らねばならぬ。 ぎりぎりに家を出たからだ。 体調が悪い時はぎりぎりまで横になっている私だ。 「新着本」と書かれた小さな棚から「文庫だったら軽いし、薄い本だから読めるだろう」と何も考えずに借りた。 地下鉄電車の中で早速読み始める。 「ホラー小説ではないか!!!!!!!!」と心の中で叫ぶ。 なんと舞台は私の住む九州であるし、。地下鉄もでてくるのか! 天神も博多も、地名がでてきていますけれども? とにかく驚い...

私とチューリップ(命の力強さ)

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チューリップが私の気力をもう一度、この世に引き戻してくれた。 年末年始は、魂が抜けた様に暮らしていた私だった。 年始から風邪をひき、寝込んでいた。 年末から気持ちが落ち込んでいたのをなんとか立て直そうとしていたが、私が悩んでも解決しないことを考え続け、止まらず、うなされた。 「芸術の価値観」について考えていた。 まだまだ、幼い頃からの環境や教育からの先入観があるせいか、芸術をお金の基準で見ることに抵抗がある。日本というお国柄もあるかもしれない。 私は、お金が悪いものだとは思っていない。 描いてきた絵をお金という基準で価値を見出すことが堪らなく陰気にさせた。 私が描いてきた絵は、きちんとしたカンバスではないのだ。段ボールだとか、処分するために崩した棚の板だとか。 誰かに向けて描いた絵が少ないのだった。それは自分の楽しみだけのために描いた絵たちだからだ。 何もかもが面倒になって、安易に「死にたい」と思った。 風邪で体力が落ちているせいもあるだろう。 それに、栄養が足りてないのだろう。 私が「死にたい」と思う時は大抵、栄養が偏っている時だった。単純なのである。 「死にたい」と思えるうちは、まだエネルギーがある。 それで結局「大丈夫」という結論が出て、生きているのだった。 死ぬのもエネルギーがいる。そう、どちらにしろ、エネルギーがいるなら生きようと思うのだった。非常に単純なのである。 考えたり、死にたいと思う気持ちがまだあるうちは、私にはエネルギーがあるのだ。 何も考えない、何もしようとしない、死にたいとも思わない。 私には、その時が一番、本当に「死」に近いと言える。 久しぶりに買い出しに出掛けた帰り道だった。 近所に個室の美容室ができたらしい。店の前に誰かからのお祝いであろう、花のスタンドがあった。 店先に飾られた花がなくなればなくなるほど、商売の先行きが良いのだと聞いたことがある。私が通った時はほとんど花がなかった。 萎れてうなだれている赤いチューリップが目に入った。 チューリップはだらんとしていた。 今の自分の様に見えたのだった。 私は、そっとそのチューリップをスタンドから引き抜いて、掌にのせて持ち帰った。 掌にのせないと、首がだらんとしてちぎれてしまいそうだったからだ。 家に着くとそのチューリップを最近空になったジャムの瓶を洗って水を入れ、それにさした。さしたと言う...

人では癒されないという事

 人生の師匠がひどく悲しいオーラを放っていた時期があった。 それは私でいうと「話しかけるな」というオーラを放っているのと同じで。 表向きはわからないようにしていたようであったが、私は師匠を長くみているので、なんとなく敏感に感じ取ってしまったのだった。 師匠がそういうものを表に出さない技術を目にしながらも、しんどいのがどことなく伝わってくるのであった。 私は、人の何かに敏感だった。 いつも周りに気を配るような、そういう環境で育ったからかもしれない。 いつだか、「周りに鈍感すぎる」と言われた時期もあった。 それは鈍感のようなそぶりを見せていたからだった、私の思惑通りに周囲には見えていたのだ。 ただ、それとは裏腹にやはり頭のどこかで周りをみていたのだった。 師匠はポロリと、抱えていた何かをこぼす時がある。 しんどくて仕方ないのだろうと思う。 大抵、私も師匠も悩むことといえば、人間関係のことであった。 生きている限り、それはつきまとうであろう。 人は人を傷つけていないと思って見せる態度も、私の世界ではその奥を見てしまって、その人の本質とか理不尽さをそこに見ると、もう救われない時がある。 「人から傷つけられたその痛みは、人で癒されることはない。」 師匠はそう言っていた。 頭では分かっていた。人とは痛みを分かち合えないことも。理解していた気になっていたのだと思う。 最近、師匠の言っていたことがよくわかるようになってしまった。 人より多く俯瞰してものを見れるということは、長所でもあるが、短所でもある。 ものの見方の選択を多く持つことはいいことではあるが。 その考え方の一つによって、傷つけられたことをうまく昇華しようとするが、それは神様くらいではないのか、できるのは。 悲しい時は悲しい。 傷ついた時は傷ついて、癒えるまで時間がかかるのが人間ではないだろうか。 昨日、鴨が寒空の中、体に顔を埋めて、川の干からびた場所で寝ていた。 太陽に体の茶色がキラキラと光り、ふっくらとしたその毛をよりふかふかと暖かそうに見せていた。 私のあんな毛があれば、自分の体に顔を埋めてみたい。 つい立ち止まって、小さなメモにクロッキーした。 人では癒されないことは、動物や風景を見て癒す。 そうやってきた。 時間がかかりそうである。 芸術の価値とか、文化の価値とか。私が考えなくてもいいことを考えてしまう...

今日のデジタルイラスト(第五人格:悪夢)途中02

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#第五人格イラスト #悪夢  #procreate  #デジタルイラスト  

残しておきたいもの

 世界で最初の絵は、戦争に行ってしまう恋人、去っていくその恋人の壁に映った影を残そうとその影をたどって描いたものがそうなのだとか。 「民藝」という冊子で、そのようなエッセイを読んだ。 残しておきたいと思うものがあるのだろうか。 今の私にはない。 親類に頼まれていたツイッターのアイコンを夜中に作成する我。 「ヘッダーは作らなくていいの?」 「ヘッダーって何?」 そんな訳で、2022年の制作は、アイコンとヘッダー作りから始まった。 でき上がるかどうか、わからない。 アイコンは作ろうと思うが、何しろ気力が日が経つにつれて失せていく。 誰かがいてくれてなんとか気持ちを奮い立たせたが、今月は当分寝込むのかな。 人をどう信じたらいいのだろう。 どんな風にお金を稼いだらいいのだろう。 私が社会に貢献できることってなんだろう。 「後ろめたさは持たないで、生活しなさいよ」 と”人生の師匠”が声をかけてくださった。 どうやって立ち直ったらいいのか、わからなくなった。 「希望がない時はどうするのだろうなぁ」 「希望を作ればいいじゃない。」 あっさりと「作ったら良い」と、若いその人が潔く言ってくれた。 希望すら作れば良いのか、単純に。 ないものは作ってきた私だ。 とりあえず、希望を作ろうか。 希望も、残しておきたいものも、作れば良いのだね。 シンプルだ。