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「新訳 星の王子さま」アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(作)、倉橋由美子(訳)、読了。

小さな時に読んだか?読んでないか?はっきり覚えていない。 が、しかし。「この話、わからない」と思った記憶だけがある。 バオバブの木を知ったのがこの物語で、本当にバオバブの木が架空ではなく実在することを知って嬉しかった。それも記憶がある。 読んだのだろう。ほんの少し。 数話だけ記憶にあるということは、途中で読むのを止めたのだろう。 「子供が読む本だったのだろうか?」と考えてしまうのは、大人になってから再読したからであって。 訳者のあとがきにも児童書コーナーに置いてあるのだ、と書いてあった。 なんだろうな。 これは哲学書みたいだった。 哲学の本は、物語のようには書かれていないことが多いが、哲学を物語にしてしまったような作品だった。 もちろん哲学書より読みやすく、楽しい。 この添えてあるイラストがたまらなく愛しくなる。 かわいくて、ユニークなイラストだな。 それもあって、ずっと愛されている作品なのだろうな。 子供のための作品なのだろうか。 「この本はある大人に捧げたい」と切ない前書きがあった。飢えと寒さの中で慰めを必要としている親友へのための慰めであった。物語の世界へ入る前に、なんとも本当に、微力すらない自分を私は思ってしまった。 図書館の前に、七夕飾りが設置してあったので「みんなが幸せにすごせますように」と短冊に願い事を書いてきた。 全世界はなんとかできないだろうが、自分の周りの人くらいは何か幸せを、と、、、私も出来ることはしたいな。 主人公が遭難した砂漠が物語の舞台だと知って、思い出したのはアガサクリスティだった。 『春にして君を離れ』 人は人生を振り返ることになるとき、砂漠に遭難するのかな。 日本には鳥取砂漠があるから、私も行ってみようか。 遭難したくはないから、観光でおわるだろうけど。 理不尽なことを飲み込みながら、生きていくしかない。 砂漠に遭難した主人公と王子様の会話でお話は成り立っている。 王子様は王子様の住む星とは別の星をめぐって、その星にいる人に面会するのだが、王子様には、各々星にいるその人物の考え方の理解に苦しむのだった。 その話を王子様が主人公にする。 出てくる登場人物それぞれが「え!?」と思うような大人の代表であった。もしかしたら、自分がこのうちの一人に該当するかもしれない。それに、このような人たちを社会で確実に見たことのあるクセのある人物だがどう...

小磯良平展 幻の名作《日本髪の娘》、鑑賞

私にとって、小磯良平さんは 「絵にしにくい構図を描く人」である。 いま、私はコツコツとパースを勉強している。 もちろん独学だ。 テキストは普通に書店に販売されている本だ。 買うには高い本であったが、丸善がビニールをかけずに内容を見れるように書架に置いてあったので、内容を確かめてから購入した。 三点透視図はなかなか描く機会がない構図だと思っている。 漫画やアニメならよく見かける構図ではあるが、絵画はあまり見かけない。 見かけたとしても「良い作品か?」と見るにはとても難しい。 自然な感じがしないからだ。 人物のパーツの中にも三点透視図が出てくる。例えば、足を奥にひっこめているなど。椅子に座っている人などの足はこれだと思う。(私はアカデミックの教育を受けていないのではっきりとは言えないが) この構図を描くのは画力がいる。 この目で、自然に見えてしまう三点透視図を見たかった。 家計をやりくりするのに、毎月うなってしまう私ではあるが、ここはわが町に展示が来た時に見ておかないと、多分この先、もう見ることはないだろう。 会期終了が近いせいもあり、図録は売り切れていた。 2200円か、図録にしてはお安いのではないか。 欲しかった。 でも、仕方ない。 割合としては人物画中心で、静物画が少し。という内容の展示であった。 「ああ!この構図は描くのがむずかしい」 という作品がいくつもあった。 《和服の婦人像》などもその一つだ。身を乗り出しているご婦人のからだ手前と奥に行く、その描き分けが難しいと思う。 そして、やはりプロでいらっしゃると思った。 私は写実作品の鑑賞が苦手だと思う。。 生々しすぎるからだ。 写実作品でも苦手じゃない作品も、もちろんある。 写実作品の中でも見て疲れる作品に、たまに出会うことがある。その作品は、未熟だと思う。自然にこちらに入ってこないからだ。写実だが、写実の度がこえると生々しくて現実っぽくないから。つまり、不自然に見えるのだ。 小磯良平さんの作品はそうではなかった。 生々しくなる手前で止めてあり、全体がギラギラとしてくどくない、しっかり強く描くところと抜いて描くところ、両方のバランスがとれている。 私のようなアマチュアであると、それがうまくできていないことが多い。 だから見る側として、見るのに疲れる作品になりがちになってしまうが、プロは違う。 光の入り方も嘘を描い...

野球と私(12)「ベースボールと野球 知っているようで知らないその世界」大熊廣明(監修)、稲葉茂勝(著)、読了。

ここ数年、プロ野球を観戦している。 中継番組であったり、ラジオであったり。時と場合により使い分けて観戦している。 応援しているチームが勝つとすごく嬉しい。 いつの間にやら、プロ野球が好きになってしまっていた。 私は、ちびまる子ちゃんと同じくらい野球が好きではなかった。 「野球見るくらいなら、他のテレビが見たい」 そういうよくいる女子小学生であった。 そのまま大人になったのだが、勤務先の女子たちに誘われて、一緒に野球観戦に行くようになり。退社してからは、ずいぶん長い間、野球を見ることがなく。 観戦に行っていた時ですら、同僚女子に 「今の何?」 「ストライクKって何?」 といちいち聞くくらい野球を知らなかった。 (ちなみに、今はもうストライクKは知っている。三振のことである。) それくらい野球のことは詳しく知らない。 中学生の時は部活動の勧誘などのプリントを見た時に「軟式野球」もよくわからなかった。 硬いのと柔らかいのとどう違うのか?など。 それは普通はみんな知っていることなのかどうかすら、興味がないから誰かに訊くこともなかった。 興味が出てしまったゆえに、この本を読んだ。 軟式野球は日本で生まれた独自の野球だそうだ。 そもそも野球の道具が高価なので、一般の子供たちには手に入らない。子供たちがはじめた野球ごっこがその始まりのようである。安く手に入りやすいボールが軟式ボールだった。 そもそも柔らかいボールであればケガもしにくいから。 ただ、やはりプロ野球選手が硬式ボールを使っていると、硬いボールを使いたいあこがれを抱くのは当たり前で。 少年野球とリトルリーグも違うとのことだ。 少年野球は軟式、リトルリーグは硬式のボールを使うそうである。 なので、リトルリーグの方が盛況なのだそうだ。 因みに、ベースボールの発祥はイギリスの子供たちの遊びからだが、ベースボールとしてのルールがはっきり制定したのはアメリカで、お互いに「うちの国が発祥」と言っているようである。 、、たいへんだな。 日本に伝わったのは明治時代で「野原でやる球技」で「野球」となづけれらた。 驚いたのが、野球用語を作った一人の中に正岡子規(歌人)がいて。 「死球(デッドボール)」「四球(フォアボール)」という用語を作ったのは子規なのだそう。漢字ってすごいな。二文字で「ああ!あれか!」ってわかる。それを作った人もすごい。...

立派な最後は、

さぁ、これは読んでいる人がほぼいないブログだから。 私の気持ちの整理で書いている。 生きること 死ぬこと どちらにも意味はなくて。 そう思うと、死んでもいいし、生きてもいい。 そう思える。 ただ自分でコントロールして死のうとすると、結構むずかしい。 場所は? (ここで命を絶つと、後始末が大変になる。事故物件になる) 方法は? (できたら痛くない方法でできないか) 死んだ後の世界はあるのか? (見えない世界があって地縛霊というものがあるなら、そうなりたくないな) 私の近所には、老人施設がある。 そこは多分、国の経営ではない。 お金をそれなりにお持ちの方々が入れる施設だ。 たまにその前を通る。 私は生きるために食料の買い出しへ行く。その時の通り道に、その施設がある。 そこが見えない道を通ってもいい。 そうすると店まで少し遠回りになるから、結局、この道を通ってしまう。 そこは昼間、カーテンが開けてある。 そうすると中の様子が見える。 じっと座っている。 人生の先輩たちが話もせずにじっと座っている。 そこの食堂なのだろう。 そこはいつもシンとした空気を感じる。 どこを見ているのだろうか。 たまにテレビがついていることもあるが、見ている様子もない。 歩けるのだろうか。 もう歩くことさえ出来ないのだろうか。 椅子に座っている方もいる。 椅子ではなく車いすに座っている方は、もう足が機能をしていないのかもしれない。 立派だと思った。 どんな場所だろうと年を取ってから入る施設は、そこで死を待つことになるだろうから。 あんな風にじっと死を待つこと。 私は立派だと思った。 私は時々「死にたい」と思ってしまう。 それは誰でも人生の中で一度は思ったことがあるのではないだろうか。 私が「死にたい」と思う時は、たいてい体調が悪い時だから、体を休めてやれば次の日は気持ちが変わっていることが多い。だから、その時は気持ちから気を逸らす。 突発的に死んでしまう人がいらっしゃるが、「時間がたてば気持ちが変わる」ということを知らないのかもしれないと想像したりする。 だからもし「死にたい」と思ったかたがいたら、堪えて明日まで待ってみて欲しい。 次の日に気持ちが変わっていることがあるから。 同じ気持ちが続くようなら、それはどこかが悪いに違いないから、病気だと思う。その時はまず病院に行ってみて欲しい。そうこう気を...

「多様性は美しい 分類からはみ出る愉快な生物の世界」稲垣栄洋(著)、読了。

 犬と猫は同じ先祖であったらしい。 「ミアキス」という。 森林にすむと「猫」になり、森林を抜けた広い草原に住むと「犬」になった。どんなふうに犬猫を分類するかというと、交配できるかどうか。 これもどうなのか、交配だけの観点で分類できるのかという話であった 「世界に境い目はありません。(中略)境い目がないと、人間は世界を理解することが出来ません。」 ちなみに、タカとワシは大きさで分けているらしい。 一般的にはワシの方が大きい。(ただし例外はある。) クジラとイルカも同じように大きさで分けているらしい。 案外単純である。 野菜なのか果物なのか。 …という分類に関しては、関税の問題などがあるから、作っている農家さんが都合がよい方に決めていいみたいだ。 大きくは草本性のものを「野菜」、木本性のものを「果物」と分類するらしい。 バナナは木のように見えて草本性なのだそうだ。 「分類学の父」カール・フォン・リンネ。 植物学者。 世界共通の名前をつけること、それが「学名」。学名はリンネ以前からもあった。分類の階層をつけることを提案した人らしい。 界・門・網・目・科・属・種 リンネが提案した「二名法」は現在も使われているらしい。 リンネは、同時によんでいた別の書籍にも出てきた人だ。驚いた。 本書を読んで驚いたのは、息子に自分と同じ名前を付けたため、それを区別するのに「大リンネ」(本人)、「小リンネ」(息子)と呼び分けることがあるらしい。(『百年の孤独』みたいだな…同じ名前が引き継がれていくのだ…) 分類は分類する人たちのものです。分類される人のためのものではありません。(著者の言葉) そこらへんに生えている草で利用できるものは名称も覚えているが、自分にとって、必要のない関係のないものは雑草である。…という認識。 印象に残ったものを書き記しておく。 この著者も同じようなことを言っていたが、分類は人間にとって都合がいいからやるものである。 ただそれだけだ。 私は分類が苦手だ。 「多様性は美しい」と言える人がこの世界には少ないのではないかな。 線を引き、その境界線がはっきりしていないと安心できない人が多い。 そういう方は、多様性が美しいことなぞ考えない、そもそも見ようとしない。分類された中にある確実にある美しさしか見ようとしない。 白と黒しか見えない人には、多様性をみることがない。 ...

「イラストで出会う女性たちのいる美術史」文:李君棠(リー・ジュンタン)、絵:垂垂(チュイチュイ)、訳:多田麻美(ただ・あさみ)、読了。

私は一時期、美術史ばかりを読んでいた時期があった。 その時は気が付かなかった。 美術史の中で女性作家がほぼ登場せず、紹介されることがないこと。 登場したとしても、作家としてではなく、男性画家のモデルとして紹介され「モデルだけど絵も描ける」というような一行程度の肩書き説明があるだけだった。 男性作家のモデルや愛人としての脇役的な登場はあっても「作家」であることは語られていないのだった。 それだけ世界中で男尊女卑があった時代が長かったのだ。 今も表向きはないように見えるが。 苦しんでいる方々がいるだろうな。 この本は、女性作家のみに目を向けた本となる。 23人の女性作家が掲載されており、美術史を交えつつイラスト主流で紹介されている。 イラストに重きをおいているせいか、文字が小さめで読みにくかったな。もう少し字を大きくしてほしかったな、、、ページ数の関係などもあるのだろうな、、、。執筆する人も出版する人も大変だな。 私が気になったのは以下の三人である。 いつものごとく、自身の備忘録としてここに残しておく。 マリア・ジビーラ・メーリアン 葛飾応為 ルイーズ・ブルジョワ マリア・ジビーラ・メーリアン  私は図鑑の絵が好きだ。 図鑑は写真より絵で構成されている方が好きだ。 図鑑の絵は、誰かが目で見て描いた”そのもの”のきらめきが入っていなくてはならない。見る人が「そのものがどんなものなのか」理解できるように、事実を描かなくてはならない。 私自身は図鑑の絵を描いたことはないので、はっきりとは言えないが、私はそう思っている。上記にあげたことは当たり前なのかもしれないが、この当たり前を描くには当然画力が必要になる。そして、対象物に愛をもって接することができないと、対象物のきらめきは描けない。写真より実物を目の前にして描く。その時のきらめきは、そうやって絵に閉じ込められる。 私はこの画家を知らなかったが、この時代で画家としては「アマチュア」に分類されていた。この本は美術作家を紹介する本ではあるが、この方は画家というよりもどちらかというと研究者であると私は思った。 女性であるが故に、大学で学ぶことも許されず「愛好家」というようなアマチュア名称でしか肩書を名乗ることができなかったのだ。そういう時代の方だ。 遺書まで書き、死ぬ覚悟で虫を見たいという気持ちだけで全財産を傾けて、娘二人と共に南ア...

「デモクラシーのいろは」森絵都(著)、読了。

 小説は久しぶりに読む。 体調の悪い日は、体が動いてくれない。 ただ意識があるかないかで、ずいぶんその日の過ごし方が変わる。 頭がぼうっとしていなければ、、、つまり意識があれば、文字は頭に入ってくるから本を読む。 途中で眠ってしまっている場合もあるが、それはそれでいい。私がコントロールできることではないから。 なぜ、この本を選んだのか? よく覚えていない。 図書館に予約しておいた本であった。 いつも忘れたころに、私のところに回ってくる。 ありがたいと思う。 ありがとうございます。 タイトルをみるとわかるけれども「デモクラシー」は「民主主義」のことである。 ”デモクラシー”と聞くと私は「大正デモクラシー」という言葉しか思い出せなかった。 それくらい私は勉強が苦手なのだ。 それに私にとって、民主主義は非常に幻想にすぎないのだが。 それは若いころも今も変わらない。 舞台は戦後の日本、「GHQが日本人に民主主義を教える」という実験をするために教師として選任された日系二世の男性教師と、実験に選ばれた四人の若い日本女性の物語である。 もう少し詳しい内容が知りたい方は公式のサイトを見ると、物語の全体像がつかめるのではなかろうか。 序盤、私にとってはとても読みづらく「あきらめて動物の本(小説ではない本)を読んじゃおうか」と放り出したくなったのだが、三分の一読んだ辺りから、その先が気になってきて結局さいごまで読んでしまった。 読了できて良かった! 私なりの感想、気づきをここに書こうと思う。 (他の人が注目しない点に目が行ってしまっていると思われるが、そこは気にしない。私は私であるから。どうしようもない。) ・人は栄養が足りてないと頭が回らない。 改めてそう思った。 この点に注目してしまうのは、私の虚弱体質があるからだが。 戦後の日本が時代背景にあり、集まった四人は日給が出るのと、食事が支給されることにより実験を引き受けたようだ。食料や服を調達するのに苦しい時代であったから、条件のいい職だったのだろう。後半部分の「第七章、罪と罰」は登場人物である美央子さんの日記形式で物語が描かれるのだが、栄養をとるようになって頭が回ってくるようになった、、、というような一文がある。 私は改めて、食事の大切さを思った。 戦争で何もかも無くなった日本人が各々で立ち上がるにはまず食事という当たり前の...