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「運動指導者が断言!ダイエットは運動が1割、食事9割」森拓郎(著)、読了。

友人が緑内障になりかけている。 そうだ。 もはや久しぶりに会う友人との共通会話内容は専ら”健康”に関することになりつつある。 私はこういうのが苦手だ。 たいてい良い話ではない。 どこが痛いとか、どこが悪くなったとか。 私に言わせると、そんなの私は昔からである。年をとったからと始まったことではないのだ。 今、そんな風に体のどこかに不調を感じる人は、今日という日まで頑張ってくれた自身の体を今まで以上にいたわってあげて欲しい。 そして、今日という日までまっとうに動いていた自身の体に感謝してほしいと思う。 自分が「当たり前」と思っていることは実は「当たり前ではない」。けれど、多くの人は、それに気づくきっかけが病気になった時なのだろうな。 大抵は歳をとって体の衰えを感じてから気が付くことが多いようだ。 友人は申し訳ないが、私の目から見ても友人は標準体型ではない。 明らかに病気をひきおこしそうな体型である。 大柄で健康な人がたまにいる。それなら問題がない。私は大柄な体型でも健康だったら別にいいと思う。だが、友人の話を聞いていると揚げ物もよく食べるようであるし、そもそも野菜(ビタミン)の摂取が足りていないのも気になる。それに、痛風の発作を忘れたころにな起こしていて、それを繰り返しているようである。 プリン体を摂取しなくても痛風になってしまう体質があるらしい。 「痛風」と聞くと、男性がよくかかる疾患だというイメージがあるのではなかろうか。 体質であるとすると男性も女性も関係ないのだそうだ。 世の中には「体質改善」の本も多くでているし、その方法も多種多様であろうが、個々の体も多種多様であるから、その中の一つ一つを実行して体質は変えることが努力で叶うのか、私にはわからない。 現に私はずっといろいろと体質改善を試みているが、良くなった感がないからだ。私自身は、もう病気と一緒に生きていくという気持ちが人生の前半でかたまっていたので、体に良いことを試してみて体調が変わらなくても特に気にしなくなった。 あくまでも健康的な食事や軽い運動はデフォルトとしてであり。その上で、さらに努力をしてみるのであるが、私にはもう無駄だということも分かった。 何でも限界があるのだな。 (そう、だからいろいろ試してみて叶わなくてもがっかりしなくていいと思う。) さてさて、私が通う病院で医師がある日、ぽつりとこぼした...

「運動指導者が断言!ダイエットは運動が1割、食事9割」森拓郎(著)、読了。

友人が緑内障になりかけている。 そうだ。 もはや久しぶりに会う友人との共通会話内容は専ら”健康”に関することになりつつある。 私はこういうのが苦手だ。 たいてい良い話ではない。 どこが痛いとか、どこが悪くなったとか。 私に言わせると、そんなの私は昔からである。年をとったからと始まったことではないのだ。 今、そんな風に体のどこかに不調を感じる人は、今日という日まで頑張ってくれた自身の体を今まで以上にいたわってあげて欲しい。 そして、今日という日までまっとうに動いていた自身の体に感謝してほしいと思う。 自分が「当たり前」と思っていることは実は「当たり前ではない」。けれど、多くの人は、それに気づくきっかけが病気になった時なのだろうな。 大抵は歳をとって体の衰えを感じてから気が付くことが多いようだ。 友人は申し訳ないが、私の目から見ても友人は標準体型ではない。 明らかに病気をひきおこしそうな体型である。 大柄で健康な人がたまにいる。それなら問題がない。私は大柄な体型でも健康だったら別にいいと思う。だが、友人の話を聞いていると揚げ物もよく食べるようであるし、そもそも野菜(ビタミン)の摂取が足りていないのも気になる。それに、痛風の発作を忘れたころにな起こしていて、それを繰り返しているようである。 プリン体を摂取しなくても痛風になってしまう体質があるらしい。 「痛風」と聞くと、男性がよくかかる疾患だというイメージがあるのではなかろうか。 体質であるとすると男性も女性も関係ないのだそうだ。 世の中には「体質改善」の本も多くでているし、その方法も多種多様であろうが、個々の体も多種多様であるから、その中の一つ一つを実行して体質は変えることが努力で叶うのか、私にはわからない。 現に私はずっといろいろと体質改善を試みているが、良くなった感がないからだ。私自身は、もう病気と一緒に生きていくという気持ちが人生の前半でかたまっていたので、体に良いことを試してみて体調が変わらなくても特に気にしなくなった。 あくまでも健康的な食事や軽い運動はデフォルトとしてであり。その上で、さらに努力をしてみるのであるが、私にはもう無駄だということも分かった。 何でも限界があるのだな。 (そう、だからいろいろ試してみて叶わなくてもがっかりしなくていいと思う。) さてさて、私が通う病院で医師がある日、ぽつりとこぼした...

「汝、星のごとく」凪良ゆう(著)、読了。

この頃、たまにものすごく早く起きた朝は、散歩に出る。 海岸沿いを行くと、カニが普通に道路を歩いている。 私はそれを見るのが好きだ。 だから、4時や5時に目が覚めたら、散歩に出かける。 人間たちではなく、木々や季節の花・虫・鳥などの自然に目を向けることが出来るということは、生きる技術の一つだと思う。 私はそれをようやく習得してきたようだ。 雨が降った後の松の木の葉一本一本に水滴がつく美しさとか。鳥が羽ばたいていく様子。明けていく空とか。雲の流れ。水面の模様。 そういうのを丁寧に見る。 今。この時。その時間にしか見れないものに意識をおく。 それが私の今この時を生きている楽しみであり、証でもある。そして何度も言ってしまうが理不尽から距離をおく生きる技術であると私は勝手に思っている。 久しぶりに物語を読んだ。 実用書的な内容の本ばかりを読んでしまう私なので、本当に物語は久しぶりであった。 この本を図書館に予約したのはいつだっただろう。 予約したのは、、、2年くらいまえではないかな。 (先に続編を借りて、よんでしまったのだったな。) 私は人間という生き物が苦手なので、物語をあまり読まないのかもしれない。 それなのに、自身の作品作りには物語を求めてしまうという矛盾があるが。 文頭のカニの話は何かというと、私は人間が苦手な故に、ついつい目に入ってしまう「人間」という動物から意識を逸らして生きようとしているのだ。 それくらい私は弱く、この世の基準では自分がつぶれるということ知っているからである。 私はそういう自然のものに癒しを求めるのだった。 誰が決めた基準か知らないが、その基準に添える才能とか気質を持っている人が世の中の大半を占めている。(多分。これは私の勝手な推測である) この物語に出てくる主な登場人物は、その基準に添うことが出来ない人たちであった。 この物語が心に響くということは、世のなかの多くがもしかしたら、基準に添うのが苦しい人たちなのかもしれないな。 本が大ヒットするということは、そういうことなのではないか。 親が子を消費してはならない。 私はそう思っている。 親の抑圧や期待を人生で受けた経験がある人は、感情移入するかもしれぬ。この物語に多くの人が共感を寄せる点は、それもあるのではないかな。 物語に出てくる二人は、親に消費されているからな。 一人で生きるという虚しさ、人...