人では癒されないという事
- リンクを取得
- ×
- メール
- 他のアプリ
人生の師匠がひどく悲しいオーラを放っていた時期があった。
それは私でいうと「話しかけるな」というオーラを放っているのと同じで。
表向きはわからないようにしていたようであったが、私は師匠を長くみているので、なんとなく敏感に感じ取ってしまったのだった。
師匠がそういうものを表に出さない技術を目にしながらも、しんどいのがどことなく伝わってくるのであった。
私は、人の何かに敏感だった。
いつも周りに気を配るような、そういう環境で育ったからかもしれない。
いつだか、「周りに鈍感すぎる」と言われた時期もあった。
それは鈍感のようなそぶりを見せていたからだった、私の思惑通りに周囲には見えていたのだ。
ただ、それとは裏腹にやはり頭のどこかで周りをみていたのだった。
師匠はポロリと、抱えていた何かをこぼす時がある。
しんどくて仕方ないのだろうと思う。
大抵、私も師匠も悩むことといえば、人間関係のことであった。
生きている限り、それはつきまとうであろう。
人は人を傷つけていないと思って見せる態度も、私の世界ではその奥を見てしまって、その人の本質とか理不尽さをそこに見ると、もう救われない時がある。
「人から傷つけられたその痛みは、人で癒されることはない。」
師匠はそう言っていた。
頭では分かっていた。人とは痛みを分かち合えないことも。理解していた気になっていたのだと思う。
最近、師匠の言っていたことがよくわかるようになってしまった。
人より多く俯瞰してものを見れるということは、長所でもあるが、短所でもある。
ものの見方の選択を多く持つことはいいことではあるが。
その考え方の一つによって、傷つけられたことをうまく昇華しようとするが、それは神様くらいではないのか、できるのは。
悲しい時は悲しい。
傷ついた時は傷ついて、癒えるまで時間がかかるのが人間ではないだろうか。
昨日、鴨が寒空の中、体に顔を埋めて、川の干からびた場所で寝ていた。
太陽に体の茶色がキラキラと光り、ふっくらとしたその毛をよりふかふかと暖かそうに見せていた。
私のあんな毛があれば、自分の体に顔を埋めてみたい。
つい立ち止まって、小さなメモにクロッキーした。
人では癒されないことは、動物や風景を見て癒す。
そうやってきた。
時間がかかりそうである。
芸術の価値とか、文化の価値とか。私が考えなくてもいいことを考えてしまう。
私が描く理由なんて、もうないのではないかな。
- リンクを取得
- ×
- メール
- 他のアプリ
コメント
コメントを投稿