投稿

11月, 2022の投稿を表示しています

「むらさきのスカートの女」今村夏子(著)、読了。

なんと気持ちの悪い。 感想も書かない方がいいのかもしれぬ。 わたしは世間とずれたところがあるので、この感想は世間的には正しい感想ではないと思う。あくまでも私個人が感じたことであって。物語は秀逸であると思う。 とりこぼされた世界で生きる私は、この気持ち悪さを話す人もおらず、自身で消化できずにいる現状を文章にしておく。 この本は2019年の芥川賞の作品らしい。 著者の紹介欄を読むと、他でも多く賞をいただいていらっしゃるのであった。 昨日、外に出る用事があって、久しぶりに図書館へ寄った。 このところ物語を読まないから小説を読みたかった。 図書館にはひとつ前のベストセラーコーナーなるものがあって、そこを漁った。 棚ではなく、ブックトラックに乗せられているからだ。 このところの気温変化に体がついていけないから、長編を読む気力と体力がない。 比較的厚みのない本を選ぼうとして、その中から表紙で選んだのがこの本だった。 タイトルが「むらさきのスカートの女」であるのに、表紙の絵は黒の水玉柄の大きな布の中に子供が二人にいるような絵である。二人分の足だけが見える。 帰宅後にきがついたのだが、表紙裏は黒いリンゴの絵だった。 なんだかいけないものを借りてしまったのではないか?そんな気持ちになった。 わたしはこのところ、キャンバス作りばかりしている。 キャンバス下地が乾くのを待つ休憩時間に読書しようと決め、、、、 「ここで途切れるのも」と思って、そのまま読み、 二時間で読んでしまった、、、。 むらさきのスカートの女は、客観的に観察されて物語が進むのだが。 読み進めるうちに「このむらさきのスカートの女をずっと見ていて観察している人が気持ち悪い」と第一の気持ち悪さにぶち当たり。 第二の気持ち悪さは、職場の正義をそのまままねしたむらさきのスカートの女であるが、それがあだとなり周囲から孤立してしまうこと。 第三に、結局自分のことしか考えていない職場の局長とチーフたち。むらさきのスカートの女も自分のことしか考えていない。 この本のすごさは、人間のほんしつをこんな風に物語で示したことだと思う。 なるほど「芥川賞」だと思う。 感受性が強い人はきっと感じるであろう。 人間という動物の傲慢さを。 それを「むらさきのスカートの女」という人物を通して物語にしてあるのがすごい。 私は気持ち悪くて仕方なかった。 この本...

切ない冬の「こんなはずじゃなかった」

 「なんだかこんなはずじゃなかったと思って、悲しくなったとよ」 ご近所の方がそうこぼした。私のお隣さんだ。 ゴミを捨てる日だった。 私が住む地域は「ゴミ出しは夜」と決まっていて、暗くなったらゴミを捨てにいく。 普段過ごしていて大抵、住んでいる方々の誰とも会わないことが多いが、その時にご近所の方々に会うことがある。 ある日は、綺麗な月の夜で、ゴミを捨ててすぐ帰る予定の私に「今日は月を見た方がいいよ」とゴミ捨て場の目の前の空のまあるいお月様を教えてくださったりする。 その時は「今日のご褒美だよ。お月様は」という素敵な言葉をいただいた。 私はうっかりご褒美を頂かずに、帰るところだった。 まるくて美しい月を見て、私はご褒美をいただき幸せな気持ちでその日を終えた。 ご近所の方々はとても、楽しい言葉をいつもくださる。 しかし、その日は違った。 私のお隣さんは、膝の手術へ行くのだとお話を聞いていた。 2ヶ月ほど姿が見えず、帰っていらした時は心から「よかった」と思った。 膝が悪いとのことだったから、私がついでにお隣さんのゴミも一緒に捨てに行っていたのだが、手術跡を見せていただいた。膝の上を縦にアイスの棒のような線が載っていた。 その線が体に馴染むまで月日がかかるのだろうと、見ただけでわかった。 お隣さんがこう言った。 「こたつに入って足を伸ばしていたのだけれど、立ち上がる時に何かつかまるものがないと立ち上がれないのよ。」 「こんなはずじゃなかった」という言葉が私の頭の中で反芻された。 納得してしまった。こんなはずじゃなかったということ。 悲しいということは、そのまま飲み込むしかない。 悲しいことを消そうとすると、さらに悲しくなる。 それは私が昔から知っていること。 寄り添って、飲み込むとそのままの悲しいの濃度を保ったまま、いつか消化される。消そうとすると、濃度がさらに濃くなるから、悲しみはそのまま受け入れて飲み込む方がいい。 私はどう言葉をかけていいかわからずに 「冬は寒くなりますから、寒いと悲しいのが増すのかもしれないです」 悲しみを少し冬のせいにしてはどうかという私なりの提案だったのだが、それが上手く言葉にできたのかどうか。言った後に、上手く言えなかったように思えた。 私がずっと体調を崩していたことを知っていてくださったようで 「お互い頑張ろうね」 という言葉をいただい...

「同士少女よ、敵を撃て」逢坂冬馬(著)読了

 ツイッターをよく覗いていた頃に、私はこの本の表紙をよく目にした。 それだけいろんな人達が読んでいたからであろう。 私のツイッターアカウントは、フォロワーさんのほとんどが読書垢の方々なのだった。ありがたく思う。家にばかりいる私は、ここで本の情報を仕入れていることが多い。 この本が「早川書房」と聞いて、私は勝手に「SFの類であろう」と変な固定観念を持っていたし、買わずに図書館で予約した。予約したのを忘れる頃にこの本が手元に回ってくるだろうと思っていたから、こんなに早く私の手元に来ると思わなかった。 ちなみに現時点で、私の後には267名の予約者がいる。更に増えているであろう。 読了の感想は何度か、このブログでも書いたが、今回はいつもと気持ちが違う。 本で泣いたのは久しぶりであった。 それと、この読書ブログは感想とは言えない。私自身を見つめる道具であり、どちらかというと私の「備忘録」になる。 あらすじについては、検索すれば、すぐ調べられると思うので、ここでは書かない。 あくまで、私の気持ちを書くだけにする。 あらすじを簡単にだけ言っておくと「第二次世界大戦の独ソ戦」だ。 私は、精神が弱い。(ついでに体も弱い。) 元々身体のどこかしら色々と欠陥があるが、心と体は密接であるのは、正しいと私は思う。 私は精神が弱い故に、物語や物事を感情で見ることをせず、常に理性で見るようにしている。 感情で物語を読むと、私の気持ちは持っていかれる。それが架空であったとしても、だ。 それくらい弱い。 理性で読むと客観的すぎる自分もあって、それがとても面白い物語であっても、自身しらける時がある。そのせいか、私はいつの頃か小説はあまり読まなくなっていた。 私は今回、この本を感情で読んでしまった部分がある。 というのも、次の私の画題は人物画であり、7月と8月は恐ろしく「人間」という動物を見つめた。そして、画力を上げる為に、毎日描いた。 どこで自分の体と精神の限界を超えたのか、気づかずに8月の下旬には自分の感情をコントロールできなくなっていた。私は自身に暗いものを追求してしまうタイプで、今振り返ると8月の下旬は危うかった。 私は、うつ病になっていた。 この本が1ヶ月早く私の手元に来ていたら、間違いなく、私は「読む」という行動ができなかった。うつ病で頭も体も思うように働かないからだ。 10月にやっ...