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8月, 2024の投稿を表示しています

炭治郎の技とキャベツのせん切り(映画「鬼滅の刃 無限城 第一章」の感想)

私は何度も「流行にうとい」と周りに伝えてきた。 ただ今年の私は違う!!違うぞ!! 世間の流行にちょっと乗ってみようと思った。 「あまり自分が興味がなかったことにもチャレンジしてみよう。」そう思ったのだ。 歳をとったのだろう。 やってみたことないことしておいた方が良い、そういう危機感がある。 人生は短い。(想定外で少し長くなったけど) 博物館の展示「『 鬼滅の刃』 柱展 」を見たのがきっかけで 映画「『鬼滅の刃』 無限城編 第1章」を見に行った。 「柱展」の展示を博物館で見てから 漫画1〜23巻を読み アニメを少し見て 映画を見た(←今、ここ) という流れで映画を見てきた。 世間の方々の何をかりたてて、連載が終わってもなぜ熱が冷めずにいるのか。 ずっと気になっていた。 もう少し以前であると、映画「『鬼滅の刃』 無限列車編」も話題になっていたが。 私は、漫画を先に読んでしまっているので結末は知っている。 ただ2回ほどしか繰り返し読んでいないので、部分部分の詳細を覚えていない。 だから、気持ち新たに映画を見ることができた。 主人公の炭治郎が鬼(鬼の名は「あかざ」と言う)に向かうときに、ぐるぐる考えていたことを見て、私は「キャベツのせん切り」を思い出していた。 私は以前、元日本料理人から「キャベツのせん切り」を教えていただいたことがあった。 「包丁をまな板に押し付けるような力の入れ方をしてはいけない。包丁や腕にいかに力を入れずに切るかを学びなさい。そうすれば、長時間切っていられる。余計な力をかける必要はないのだから。」 確かに肘を支点として腕を動かすと力を入れずに、包丁の切れ味だけでキャベツをずっと切っていられるのだった。 ただし、これは包丁の切れ味が良くないとダメだ。 包丁の手入れをかかさずにする必要がある。 道具の手入れの大切さ。 そして、いつもいつも全力を出していては最後まで乗り切れない(戦えない)こと。 それと、肘を支点にするという技術が必要になる。正しい姿勢でキャベツを切ると本当に楽に切れてしまうのだ。ただ、これは天才でない限り、ひたすら何度も練習が必要となる。 炭治郎が考えていたこととキャベツのせん切りは同じではなかろうか。 私は勝手にそんなこと思いながら見ていた。 『鬼滅の刃』の物語の良さを周りはどう思っているのか知りたくて、たまに会う機会のある美術作家さんた...

ただひたすら線を描きたいと思った

コロナに罹患してしまった。 最近、流行っているようである。 咳だけがまだずっと続く。 私は元々、肺に傷もあり気管支が弱いので、ウイルス性の何かを患うと咳が長く続くことが当たり前だった。 今年の出来事なのか?というほど、色々なことが、この夏の前まで続いた。 心も消耗していた。 暗さを他人に振りまいてはいけない。 私はそう心に決めてある。 にこにこして生きるのだと。 その甲斐あって、周りにはいつも「悩みなんてないでしょう」と言われて生きてきた。 でも、笑えなくなってしまった。 鉛筆も絵筆も持とうという気持ちがなくなって。 暑いのに、すがるように遠くの美術館に絵を見に行った。 何もかも分からなくなってしまったからだ。 初めて足を踏み入れる街で絵を見た。 とても素敵な企画展だった。滅多に図録は買わないが、買ってしまった。それくらい素敵な企画展だった。企画展を見たら、当然常設展も見て帰る私である。 企画展だけを見て帰る人が多く、常設は目に入っていないようだった。それがいつも残念でならない。 企画展はアイドルみたいなもので、常設は地下アイドルみたいなものと言えば伝わるだろうか。 もったいない。 たくさんの人が、常設展も見るといいなぁ。 芸術は、万人受けするみんなが好きなタイプの作品だけではないのだ。美術館が力を入れて収集している作品も、様々な価値を持って、そこに所蔵されているのだ。 その日みた版画や抽象画は私の心に合致したのだろう。 別の日に見たらきっと、気に止めなかったに違いない。 信仰とは何だろうか。 土地と信仰と、作品のことを思った。 次の日に熱が出た。 誰かに「辛い」とただ一言、弱音を吐きたかった。 でも、私にはできない。 「暗さを他人に振りまいてはいけない」 そう決めてあるからだ。 私には「これが好きだ」というものがない。 それは何かというと「描きたい画題(モチーフ)がない」ということである。 これまでの人生で、私には「芯」がない。 私は人に頼まれて絵を描いてきた。 学生の頃は、同級生だったり、生徒会や先生に依頼されて描いた。 周りは私が勉強が得意ではないことを知っていたし、それしかできないことも知っていたからだ。 周りの優しさで、私は絵を描くことができていたのだった。 ありがとう。 ありがとう。 何度も熱にうなされながら言った。 夢なのか、今、家の天井が本当に正しい...

お盆、白い饅頭、人を許すということ

お盆。 「お盆」は私が他人にいろいろな憧れを抱く時期である。 それは、お彼岸も同じ。 私はお墓参りを物心ついた頃からしていない。 実は、とてもお墓参りに行きたいと思っている。 小さな頃は母方の祖父母の家とお墓参りに行った記憶がある。 バスに乗り、 船に乗り、 山を二つ越え、 小さな道を行き、 そうして祖父母の家に着く。 道には大きなアワビの貝殻があちらこちらに転がっている。 つゆ草 小さな小屋に黒い牛 近所の神社の長い階段 アラカブの味噌汁 こんな風に、いつもと違う日常になるのだった。 お盆だったと思う。 祖母がたくさんの饅頭を作って蒸していた。 お墓にお供えする饅頭だ。 台所の窓からさす光がその湯気を美しく輝かせていた。プラスチックの平い桶に沢山の白い饅頭が並べられて「お盆が来た」。 スーパーで白い酒饅頭をみると思う。 「おばあちゃんに饅頭の作り方を習っておけばよかった」と。 お盆が終わってから、饅頭を思い出して、仏壇のない私の家の台所の窓際にそっと、水、お茶、白い饅頭を供えた。 急に食べたくなったものは故人が好きだったものなのだと、そういう世界を知る人に聞いた。 祖母なのだと思う。 私の家にそっとやってきてくれたのではなかろうか。 見えないからわからないが。 私もお墓参りに行って、自分のルーツを大切にしたい。 大人になってから、それはずっと思う。 祖父母の家を訪ねてみようかと思った時もあったが、行こうと思ったときは何故か辿りつかなかった。 船が欠航になったり、私が何かしら病気になったりと、不思議と何度もそれが続いた。 心のどこかで私は行きたくないのかもしれない。 それとも、祖父母は自分の娘に苦労かけた私を許してくれていないのか。 春先に亡くなった知り合いの方は、お墓がない。 海に散骨されたのだそうだ。 それは本人の意思とは関係なく、ご家族の方々がそう決めたらしい。 私はご家族の苦労や事情を知らないが、誰もお骨を引き取る人がいなかったのだそうだ。 ご家族は「許せないのだ」と、言っていた。 死んでしまった相手を許せないとは。 私は何も言えなかった。 手をどこで合わせるのだろう。 誰も合わせないのか。 きっと良い時もあっただろう。 でも、悪い時の印象が強かったのか。 誰かに許されずに死ぬとはどういうことなのだろう。 コロナに罹患して少し落ち着いた頃にお盆がやってきた。...