お盆、白い饅頭、人を許すということ
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お盆。
「お盆」は私が他人にいろいろな憧れを抱く時期である。
それは、お彼岸も同じ。
私はお墓参りを物心ついた頃からしていない。
実は、とてもお墓参りに行きたいと思っている。
小さな頃は母方の祖父母の家とお墓参りに行った記憶がある。
バスに乗り、
船に乗り、
山を二つ越え、
小さな道を行き、
そうして祖父母の家に着く。
道には大きなアワビの貝殻があちらこちらに転がっている。
つゆ草
小さな小屋に黒い牛
近所の神社の長い階段
アラカブの味噌汁
こんな風に、いつもと違う日常になるのだった。
お盆だったと思う。
祖母がたくさんの饅頭を作って蒸していた。
お墓にお供えする饅頭だ。
台所の窓からさす光がその湯気を美しく輝かせていた。プラスチックの平い桶に沢山の白い饅頭が並べられて「お盆が来た」。
スーパーで白い酒饅頭をみると思う。
「おばあちゃんに饅頭の作り方を習っておけばよかった」と。
お盆が終わってから、饅頭を思い出して、仏壇のない私の家の台所の窓際にそっと、水、お茶、白い饅頭を供えた。
急に食べたくなったものは故人が好きだったものなのだと、そういう世界を知る人に聞いた。
祖母なのだと思う。
私の家にそっとやってきてくれたのではなかろうか。
見えないからわからないが。
私もお墓参りに行って、自分のルーツを大切にしたい。
大人になってから、それはずっと思う。
祖父母の家を訪ねてみようかと思った時もあったが、行こうと思ったときは何故か辿りつかなかった。
船が欠航になったり、私が何かしら病気になったりと、不思議と何度もそれが続いた。
心のどこかで私は行きたくないのかもしれない。
それとも、祖父母は自分の娘に苦労かけた私を許してくれていないのか。
春先に亡くなった知り合いの方は、お墓がない。
海に散骨されたのだそうだ。
それは本人の意思とは関係なく、ご家族の方々がそう決めたらしい。
私はご家族の苦労や事情を知らないが、誰もお骨を引き取る人がいなかったのだそうだ。
ご家族は「許せないのだ」と、言っていた。
死んでしまった相手を許せないとは。
私は何も言えなかった。
手をどこで合わせるのだろう。
誰も合わせないのか。
きっと良い時もあっただろう。
でも、悪い時の印象が強かったのか。
誰かに許されずに死ぬとはどういうことなのだろう。
コロナに罹患して少し落ち着いた頃にお盆がやってきた。
今年は迎え火をしているお婆さんを見かけなかった。
迎えてもらえる人はきっと、ご家族に優しかったのだろう。
当たり前のように迎えてもらえる人は。
許せないとどうなるのだろう。
ずっと抱えるということではないのか。
許して、手放したらどうだろうか。
私も許せないこと抱えているのかな。
私はここに許せずに引っ越してきた。
今はその方々を許せる。
「全部、許します。」
自分にも非があったのではないか、そう思えるようになったのも、ここに引っ越してきたからだと思う。
私は単純な人間で、日々の忙しさに追われると、全部どうでも良くなった。
「人を許せない人は、自分のことも許せないよ」と人生の師匠から聞いた気がする。
そんな切ない話ってあるのか。
みんなが抱えている何かを許せますように。
そうして、自分のことも許して、幸せになってほしいと思う。
緩やかに家の前の川が流れている。
長く住んでいるのに、ご近所で灯籠流しがあるのは知らなかった。
帰っていくのだろう。
お盆に帰ってきた方々は楽しく過ごせただろうか。
見えている人も。
見えない世界の人も。
どうかずっと幸せに過ごせますように。
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