あの橋の向こう側

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いつだか近所の川沿いをずっと行くと、その先はどうなっているのか知りたくて、ひたすらまっすぐ歩いたことがあった。 それは海岸に出たのだが。 その後、その海岸沿いを行けるところまで歩いたことがあった。 すると一番端で道が途切れた。 都市高速があって、その先の向こう側も海があるはずだが。 でも、建物らしきものも並んでいるようだが。 何があるのか?しらなかった。 その海岸沿いの端には橋が架かっている。 橋の向こう側が知りたいが。 都市高速の高架があって、向こう側がよく見えない。 ほんの少し歩けばいいだけなのだが、そこへ行く気力がなかった。 確かめずに時が過ぎた。 そこに行く何か目的が欲しかった。 その目的ができた。 どうやら調べると、そこは漁港になっているようであった。 その漁港で週末に市場が開かれているらしい。 「市場へ行こう!」 私は知らないことが多いことに驚いた。 ここに引っ越してきて16年たったけれど。 市場があることをどうやって知ったかは忘れたが。 その漁港に市場あることは聞いていた。 ただ、海岸沿いの一番端の向こう側だということを知らなかった。 橋の向こう側、都市高速の高架近くに、その小さな漁港があった。 漁師が乗る小さな船が並んだそのさきに倉庫のような屋根の建物があるのが見えた。 そこが市場らしい。 その建物の屋根の下に長い簡易テーブルがいくつかあった。テーブル前に、それぞれ何を販売するのか手書きでかかれた紙が貼られており、各々3、4人の列ができていた。 シャコ、アナゴ、タコ、、、張り紙のないテーブルもあったが、その前にも小さな列ができていた。何も書かれていないテーブルでは何が販売されるのだろう。 私はシャコを買う列に並んだ。 「アナゴの刺身」が気になったけれど、今日は懐かしくて「シャコ」と書いてある手書きの文字を見て、シャコに決めた。 330グラム、千円。 ほんとうに小さな漁港だった。 私が記憶の中で知っている漁港は大きな漁港であったから、それと比較してしまう。人によっては、ここも大きな漁港なのかもしれない。 小さな子供たちが両親と並んでいるのを見かけた。こどもは並んでいるのがたいくつなのであろう。走りだしたり、地面に白い石で絵を描いていた。 ここの漁港のご近所の方々なのかもしれない。 車でやってくる人と歩いてやってきた人がいたから。 私が小さいころ住んでい...

何も出来ない日の心の持ちよう

病気がちの私は、寝ている以外何も出来ない日がある。
体が動かなかったりする。少し動けても、本が読めない。何か見ても、頭に入って来ぬ。ただひたすら、体がきつい。でも、頭だけはまだ足掻いている状態。
何も出来ない。
そんな日がある。

私のいるこの国は「何か成し遂げなければならない」「時間は無駄に使ってはならない」という精神(洗脳?信仰?)が蔓延っていて、私もどうやら、いつの間にやらこの精神に侵されている。病気だから寝てるのに「早く治らねば!」「何かせねば!」という気持ちが付きまとうのだ。でも、よくよく考えると何も出来ないのである。
だって、身体が動かないんだもの!

自分で何とかならないものは考えても仕方ない。これこそが時間の無駄ではないか。
そもそも自分の体を自分がコントロールできる訳が無いのだ。
良い状態に保とうとすること(予防)は出来るが、主導権は「私」に無いのである。
例えば「よし、今日は心臓を止めておくか!」と私が思っても、心臓は動き続ける。心臓は頑張って動いているのだ、私の意思とは関係なしに。

だから、そんな何も出来ない日は、くたばっておく。
そのまま、そのまま。
エネルギーを使わない。
自分で解決出来ないことは考えない。
体が動かない日は体がきついからだ。

このままの状態を楽しんだりもする。「昨日より、起き上がってる時間が長い」とか、そういう事をふと考えたりして。

ただ、私もまだまだ修行が足りないのか、洗脳されているのか、この国の信者らしく「ああ!!何かせねば!!」と考えてしまう日もある。
そんな時は「あ!また考えちゃった」と言って気持ちを逸らす。
それを一日に繰り返していると飽きるので、そのうちやめるから。
でも、これ、何年も繰り返している。やはり、まだまだ修行が足りない。

今日は私なりの「何も出来ない日の心の持ちよう」を綴っておいた。

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「落雷と祝福」岡本真帆(著)、読了。