炭治郎の技とキャベツのせん切り(映画「鬼滅の刃 無限城 第一章」の感想)

私は何度も「流行にうとい」と周りに伝えてきた。 ただ今年の私は違う!!違うぞ!! 世間の流行にちょっと乗ってみようと思った。 「あまり自分が興味がなかったことにもチャレンジしてみよう。」そう思ったのだ。 歳をとったのだろう。 やってみたことないことしておいた方が良い、そういう危機感がある。 人生は短い。(想定外で少し長くなったけど) 博物館の展示「『 鬼滅の刃』 柱展 」を見たのがきっかけで 映画「『鬼滅の刃』 無限城編 第1章」を見に行った。 「柱展」の展示を博物館で見てから 漫画1〜23巻を読み アニメを少し見て 映画を見た(←今、ここ) という流れで映画を見てきた。 世間の方々の何をかりたてて、連載が終わってもなぜ熱が冷めずにいるのか。 ずっと気になっていた。 もう少し以前であると、映画「『鬼滅の刃』 無限列車編」も話題になっていたが。 私は、漫画を先に読んでしまっているので結末は知っている。 ただ2回ほどしか繰り返し読んでいないので、部分部分の詳細を覚えていない。 だから、気持ち新たに映画を見ることができた。 主人公の炭治郎が鬼(鬼の名は「あかざ」と言う)に向かうときに、ぐるぐる考えていたことを見て、私は「キャベツのせん切り」を思い出していた。 私は以前、元日本料理人から「キャベツのせん切り」を教えていただいたことがあった。 「包丁をまな板に押し付けるような力の入れ方をしてはいけない。包丁や腕にいかに力を入れずに切るかを学びなさい。そうすれば、長時間切っていられる。余計な力をかける必要はないのだから。」 確かに肘を支点として腕を動かすと力を入れずに、包丁の切れ味だけでキャベツをずっと切っていられるのだった。 ただし、これは包丁の切れ味が良くないとダメだ。 包丁の手入れをかかさずにする必要がある。 道具の手入れの大切さ。 そして、いつもいつも全力を出していては最後まで乗り切れない(戦えない)こと。 それと、肘を支点にするという技術が必要になる。正しい姿勢でキャベツを切ると本当に楽に切れてしまうのだ。ただ、これは天才でない限り、ひたすら何度も練習が必要となる。 炭治郎が考えていたこととキャベツのせん切りは同じではなかろうか。 私は勝手にそんなこと思いながら見ていた。 『鬼滅の刃』の物語の良さを周りはどう思っているのか知りたくて、たまに会う機会のある美術作家さんた...

生と死、人は生きるのに意味や理由を欲しがる。

 コロナ禍である。
「生と死」は昔から、文学でも芸術でも哲学でも、幅広く語られるものである。
私が去年描いた絵は、人間の表を裏を表現したかったのだが「生と死でしょう?」と絵を見て頂いたお二人に言われたので「生と死」かもしれない。
今、二枚目の絵は連作として描いているが「死んだら骨になるだけさ〜」みたいな絵を描いている。(思い通り描けなくて泣きそうである、公募に間に合うのか?)

ただの絵好きの変なおばちゃんがこんな主題をここで書いても、何ら世の中に影響はないと思うので、好きに書こうと思う。(そもそも私に興味ある人はほぼいないと思っている。)



「私はこんなに人に迷惑をかけて、生きる資格がない。生きていたくない。」
そんな事を言ったのは、私の主治医の担当している患者さんだ。その患者さんは障害を持っている。車椅子で来院しているのを以前はよく見かけていた。手もあまり動くようではない。
医師は、その患者さんにこう返したそうである。医師は手話もできる人だ。
「それは障害を理由にしているだけだ。普通に生きている人でも、同じこと考えているよ。生きていたくないと思っている人、沢山いるよ」と。その患者さんは、それを聞いて笑ったそうだ。医師が「自分がそんなことを言えるのは障害者と接しているからだ」と私に言った。その世界を知らずにそういう事は言えないであろうと私も思った。

世界というのは一つだと思うだろうか?
私はいくつもあると思う。当たり前だと思う人も多いかもしれない。しかし、その世界の基準は一括りにされていて、その基準で教育されてきた私たちは大人になってから悩む。
「自分は人より劣っているのでは?」「自分は普通ではないのでは?」
そう、それは誰の基準にして思うのか?基準は何なのだ?そう疑問に思って良いはずなのに、今まで刷り込まれている考えはそう覆すことができない。
世の中が掲げてきた「普通」という基準は、恐ろしくハードルが高い。
基準は人それぞれだ。その人が生きる世界によって変わる。そういう当たり前のことを私が思ったのは、医師が障害を持つ患者さんから「私はこんなに人に迷惑をかけて、生きる資格がない」という上記の聞いた話からだ。

自分の理想があっても、その能力がなければ、今自分がいる世界で生きるしかない。その立ち位置で生きるしかない。それは健常者であっても、障害者であっても同じだ。
その中で生きていくしかないのだ。
先ほど述べた世界であるが、ここで例えるならば「健常者の世界」と「障害者の世界」がある。どちらも生きていきやすい世界の基準があって良いはずだが、国というのは何でも健常者に合わせた世界の基準を要求するらしい。余計、生き辛いのではないか。
「世界」はいくつもあるのだ。

いろんな人がいる。
何か理由をつけて、生きやすいなら理由つけておけば良い。
でも、自分だけではない。みんな、何かしら悩み、何かしら理由をつけて生きることの面倒臭さを嘆いているのだ。それを言葉に出す人、出さない人、色々いる。これをわかって生きているかどうかで、今後の生き辛さが変わってくると私は思う。
なんでもそうだが、自分でそれに気がつかないと、他者が教えたところで効力がない。私の話が果たして届く人いるのだろうかと思う。ここでこうやって書き綴る話も意味がないものだから、それだけの話なのだが。
そんなもの考えないのが一番良い。生きる事自体には「意味」を持たないのだから。ただ「生き物」だというだけだ。だから生きるだけだ。

私は自分が生きやすい方を選ぶ。
理由をつけても、つけなくても、多分結果は変っていないはずだ。自分のその時その時の選択で今がある。子供時代は環境の選択肢がほぼないが、大人なら選択肢が少し増える。その中で生きていけば良い。
「あっちの方を選べばよかった」と思うこともあるだろう。
しかし、今まで生きてきて、どちらの選択をしたところで結局、私は今にたどり着いている気がする。「仕方ないよなぁ、笑」と思う。それが私なのだ。

上記に記したことは、全部、自分自身に言ってきたことだ。
とにかく、私はすぐ忘れるので、こうやって何度も自分を見つめる。
「死にたい」と思う日も私にもある。
だが、どうせいつか死ぬ。やりたい事をやっておく、今日も。
私が生きることに意味は本当にない。でも、ほとんどがそうなのではないか。
意味を求めるから辛くなるのだ。最初からそんなもの無いのだと知っていれば、少し楽になならないだろうか。

友人からワクチンを接種するという話を先月聞いたが、私は私なりに「こういう理由で、私は受けないし、勧めない」ことも話した。友人は「受けるのよ」と言った。もう受けた友人もいる。他県の友人も受けると言っていた。仕事柄、受けるしか選択がない場合もあるだろう。
それで良いのだと思う。「生きたい」から受けるのだ。
私も「生きたい」と思うから受けないが、もしかしたら私はあまり生への執着がないのかもしれない、そう思ったりした。絵は完成させたいが、このままここで死ねば孤独死なので、この絵は処分されるだろう。この部屋を整理しにきてくれる人がこの絵を見ることになるかもしれないが(そんな事が起きた日には、その方に「ご迷惑おかけしてすみません」と謝りたいが、死んでいるとなるとお会いする事はできないな)。死ぬつもりはあまりない。

今日も生と死を考えながら、画力が追いつかない絵を描く。
「笑って死にたい」と思っているから、私が描いている髑髏は笑っているのだった。
カンバスの中で明るく笑っている。
どうか描き終わります様に。

早く世界が落ち着きます様に。



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