野球と私(7):映画[REVIVAL」の観賞

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野球のシーズンが終わって、もう年末という時。 だが、しかし、なんと、映画があるのだった。 さすがソフトバンクホークス!! 抜かりなく、最後までみんなを楽しませるのだな! この映画はドキュメンタリー映画だ。 観に行ってきた! 今年のホークスのスローガンは 「美破!(VIVA!)」 だった。 この映画のタイトルをよく見ると「VIVA」という文字が隠れているのだった。 駄洒落といえば、駄洒落なのかもしれないが、私はこういうのは大好きだ! 優勝までの道のりをギュッとまとめた映画だった。 それは監督がどういう思いで、チームを率いていったかだったり。 どんな気持ちで選手が試合に臨んでいたかだったり。 日頃、どんな風に練習しているか。 そして、何より私たちが見ることのない試合中に待機しているあの選手たちの席からの目線を見ることができる映画なのだった。 私が印象に残ったことを以下に綴っておこうと思う。 ・印象に残ったこと(1)(山川選手の言葉) 山川穂高選手は、よくホームランを打つ人。そういう印象しかない。 私のささやかな趣味”プロ野球中継を聴く”(たまにアプリで番組を見る)はこの夏から始まったので、夏より以前の山川選手を私は知らなかった。 春からの開幕戦から数ヶ月は不調が続いていたようであるが、山川選手はリチャード選手の指導もなさっているようで、リチャード選手にこのようなことを言った。 「10回打ってみて、1回成功したなら、その成功を見ずになぜ失敗の9回の方を見るんだ? 成功した1回をまた打てるようにしたらいいんだから、成功した1回を見たらいい」 すごい人だ!!!!!!! 私は感動した。 コツコツと練習している様子も映像からも感じたし、何よりその言葉が私にもすごく染みた。 このように失敗よりも成功した方にフォーカスできるというのは何て素敵なんだろう! 確かに、ほとんどの人たちは失敗の方へ目を向けてしまうのではないだろうか。 「成功」の方へ目を向けるという時点で山川選手は、他とは違う何者かの凄さを持っているのだった。 素直に「わぁ!山川選手ってかっこいいな!!私もそんな風な姿勢で物事に取り組みたいな」と思った。 ・印象に残ったこと(2)(近藤選手の怪我) 近藤選手が試合でバッター席に立つ時は、いつもしなやかに筋肉を伸ばし屈伸などして準備をしているのを中継で見た。私は、バットを両手で...

生と死、人は生きるのに意味や理由を欲しがる。

 コロナ禍である。
「生と死」は昔から、文学でも芸術でも哲学でも、幅広く語られるものである。
私が去年描いた絵は、人間の表を裏を表現したかったのだが「生と死でしょう?」と絵を見て頂いたお二人に言われたので「生と死」かもしれない。
今、二枚目の絵は連作として描いているが「死んだら骨になるだけさ〜」みたいな絵を描いている。(思い通り描けなくて泣きそうである、公募に間に合うのか?)

ただの絵好きの変なおばちゃんがこんな主題をここで書いても、何ら世の中に影響はないと思うので、好きに書こうと思う。(そもそも私に興味ある人はほぼいないと思っている。)



「私はこんなに人に迷惑をかけて、生きる資格がない。生きていたくない。」
そんな事を言ったのは、私の主治医の担当している患者さんだ。その患者さんは障害を持っている。車椅子で来院しているのを以前はよく見かけていた。手もあまり動くようではない。
医師は、その患者さんにこう返したそうである。医師は手話もできる人だ。
「それは障害を理由にしているだけだ。普通に生きている人でも、同じこと考えているよ。生きていたくないと思っている人、沢山いるよ」と。その患者さんは、それを聞いて笑ったそうだ。医師が「自分がそんなことを言えるのは障害者と接しているからだ」と私に言った。その世界を知らずにそういう事は言えないであろうと私も思った。

世界というのは一つだと思うだろうか?
私はいくつもあると思う。当たり前だと思う人も多いかもしれない。しかし、その世界の基準は一括りにされていて、その基準で教育されてきた私たちは大人になってから悩む。
「自分は人より劣っているのでは?」「自分は普通ではないのでは?」
そう、それは誰の基準にして思うのか?基準は何なのだ?そう疑問に思って良いはずなのに、今まで刷り込まれている考えはそう覆すことができない。
世の中が掲げてきた「普通」という基準は、恐ろしくハードルが高い。
基準は人それぞれだ。その人が生きる世界によって変わる。そういう当たり前のことを私が思ったのは、医師が障害を持つ患者さんから「私はこんなに人に迷惑をかけて、生きる資格がない」という上記の聞いた話からだ。

自分の理想があっても、その能力がなければ、今自分がいる世界で生きるしかない。その立ち位置で生きるしかない。それは健常者であっても、障害者であっても同じだ。
その中で生きていくしかないのだ。
先ほど述べた世界であるが、ここで例えるならば「健常者の世界」と「障害者の世界」がある。どちらも生きていきやすい世界の基準があって良いはずだが、国というのは何でも健常者に合わせた世界の基準を要求するらしい。余計、生き辛いのではないか。
「世界」はいくつもあるのだ。

いろんな人がいる。
何か理由をつけて、生きやすいなら理由つけておけば良い。
でも、自分だけではない。みんな、何かしら悩み、何かしら理由をつけて生きることの面倒臭さを嘆いているのだ。それを言葉に出す人、出さない人、色々いる。これをわかって生きているかどうかで、今後の生き辛さが変わってくると私は思う。
なんでもそうだが、自分でそれに気がつかないと、他者が教えたところで効力がない。私の話が果たして届く人いるのだろうかと思う。ここでこうやって書き綴る話も意味がないものだから、それだけの話なのだが。
そんなもの考えないのが一番良い。生きる事自体には「意味」を持たないのだから。ただ「生き物」だというだけだ。だから生きるだけだ。

私は自分が生きやすい方を選ぶ。
理由をつけても、つけなくても、多分結果は変っていないはずだ。自分のその時その時の選択で今がある。子供時代は環境の選択肢がほぼないが、大人なら選択肢が少し増える。その中で生きていけば良い。
「あっちの方を選べばよかった」と思うこともあるだろう。
しかし、今まで生きてきて、どちらの選択をしたところで結局、私は今にたどり着いている気がする。「仕方ないよなぁ、笑」と思う。それが私なのだ。

上記に記したことは、全部、自分自身に言ってきたことだ。
とにかく、私はすぐ忘れるので、こうやって何度も自分を見つめる。
「死にたい」と思う日も私にもある。
だが、どうせいつか死ぬ。やりたい事をやっておく、今日も。
私が生きることに意味は本当にない。でも、ほとんどがそうなのではないか。
意味を求めるから辛くなるのだ。最初からそんなもの無いのだと知っていれば、少し楽になならないだろうか。

友人からワクチンを接種するという話を先月聞いたが、私は私なりに「こういう理由で、私は受けないし、勧めない」ことも話した。友人は「受けるのよ」と言った。もう受けた友人もいる。他県の友人も受けると言っていた。仕事柄、受けるしか選択がない場合もあるだろう。
それで良いのだと思う。「生きたい」から受けるのだ。
私も「生きたい」と思うから受けないが、もしかしたら私はあまり生への執着がないのかもしれない、そう思ったりした。絵は完成させたいが、このままここで死ねば孤独死なので、この絵は処分されるだろう。この部屋を整理しにきてくれる人がこの絵を見ることになるかもしれないが(そんな事が起きた日には、その方に「ご迷惑おかけしてすみません」と謝りたいが、死んでいるとなるとお会いする事はできないな)。死ぬつもりはあまりない。

今日も生と死を考えながら、画力が追いつかない絵を描く。
「笑って死にたい」と思っているから、私が描いている髑髏は笑っているのだった。
カンバスの中で明るく笑っている。
どうか描き終わります様に。

早く世界が落ち着きます様に。



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