「鬼滅の刃」1〜23巻 吾峠 呼世晴(著)、読了。

私はいつも流行について行けずにいる人生なのであるが、とっくの昔に連載が終わったらしいこの漫画を読んだ。 きっかけは博物館に展示されていた「柱展」を見に行ったことである。 この漫画のあらすじを知っていらっしゃる方は、「柱」が何かご存知であろう。 ざっくりと説明すると、鬼を倒す強い剣士9人が「柱」と呼ばれる。 この「柱」の中には、主人公が入っていない。 主人公不在の展示など、私はそれだけで驚いた。 普通は「主人公ありき」だと思うのだが、『鬼滅の刃』という物語が他と違うのはこういう点なのかもしれない。 物語内容はざっくりとしか把握しておらず、数年前にマンガの一巻を読んだのと、何かしらでアニメを数話だけ見たのと。 そんなに予備知識もないまま、私は柱展を見に行った。 私はなぜこの展示を見に行ったのかというと 「何が多くの人を惹きつけるのか」 ということが知りたかったから。 結局はっきりわからなかったが、私の想像ではキャラクターそれぞれの人生がしっかりとあって、誰もが何かしら共感する部分を持っているのではなかろうかと。 展示の柱各々に年譜が展示してあり、柱たちは他より超越した力を持ちながらも、人生の荒波を経験してきて現在に至っていること。 見る側に、何かしらの共感する部分があるのではなかろうか。 入場時にカードを頂いたのだが、自分が欲しい柱のイラストが選べる。 私は「胡蝶しのぶ」さんにした。 (やはり人気は煉獄さんらしい。) 本当に大した予備知識もなく展示を見に来たのだが、このカード、裏面にQRコードがあり、そこにアクセスすると胡蝶しのぶさんの声が聞けるのだった(内容については触れずにおく)。展示の会期中だけアクセスできる。 話は戻って、展示がきっかけで漫画を読んだのだが。 私は23巻が終わっているのに驚いた。 天下のジャンプで、これだけの大人気漫画であれば、大人の事情で長い連載を強いられそうなものだが。 きっと担当の方も物語を見極める素敵な人がついていたのだろうと思う。 この漫画を読み終わった時に、私はウルトラマンを思い出していた。 私の中のウルトラマンは怪獣を倒すために、キックの練習などを地道にしていたのが記憶に残っていて。 「あんな戦いをするためには、やはり練習をするのだな。」 と幼心に感動したのだった。 当時、小さいながらも「いきなり強くなったわけではない」ということを...

片付けと生気

「断捨離」という言葉が商標登録されていたとはつゆ知らず。
ブログで使ってしまっていた。商標登録後の、その語句の使用とはどうしたら良いのか。
後で調べようと思うが。(営利目的ではなく、ただの現代用語としてなら使って良いのかな?)

このところ、増してよく物を捨てている気がする。
以前と違うのはあまり躊躇いがなくなったことだろうか。
ただ、ものが減ってくると、やはり「未来」への不安が少しよぎるのだが、人生の中で身一つの時があって「何とかなったので大丈夫だろう」という気持ちもある。
日によって、気持ちのシーソーがどちらかに傾くのだが、、、。
なんとかなるだろう。
どーんとこい!!!!!
未来!!!!!

物だけじゃない、いろんな物を手放して今まで生きてきた。
その時は「なぜ手放したくないものも手放さなければいけないのか!」と思っていたが、こういうことは時が経って初めてわかるものだ。何かしら意味があったのだと思う。
こうして絵を描ける環境でいるのも、今までの人生があったからだ。
どの出来事が欠けてもいけない。今にたどり着けなかったと思う。
何度も「なぜ今なの?!!神様!????」と思うことがあった。多分、どの人の人生にもそれはあるはずだ。

私にとっての片付けというのは、考え方の学びだった。

最近、台所にあった食器の水切りカゴを捨てた。
引っ越してきて一度捨てたのに、また買ったのだ。その時は「水切りカゴは必要」という概念が私の中にあって買い直してしまったのだが、今思えば「あのまま買わずに過ごしたら良かったのでは?」と思う。水切りかごは管理が大変だった。水垢がつくので、食器も洗うが、水切りカゴも掃除が必要だった。
今はフキンを敷いてその上に洗った食器を置いている。ある程度乾いたら拭いて食器を所定の位置に戻すので、シンクが散らからないし、掃除が楽である。
ピカピカしている物を見るのは楽しい。
水切りカゴは必要なかった。あの「必要」と思っていた私はなんだったのだろう。

部屋が整ってくると、心も整ってくるのだろうか?
少しは整ってきただろうか?
私は自分のことがいつもよくわからない。
汚部屋の片付けの映像を見て、最近、ゾッとした。あれは究極に自分を見失っているでは無いか!私は物が多い時期もあったが、縦にゴミを積み上げていったことはない。
その映像を見て、ゾッとしてさらに片付けた。
そこに住んでいる人に生気がなかったので、怖くなったのだ。
私は長生きはしたくないのに、心の奥底で「死ぬのが怖い」と思っているのだった。
久しぶりに母に会った事が少し関係しているかもしれない。
母がいる家の冷蔵庫の中と部屋の雰囲気にゾッとしたのと母がすがってくる姿を思い出した。

そんなある日、スーパーの近くを歩いていたら、昔の友人に声をかけられた。
ちょっとゾッとした。
その人も生気がなかったからである。
その人は私から自ら去って行った人であったが、ある日「こおさんのこと信用できない時期があったけど、ずっと友達でいてください」というショートメールがいつの間にか送られて来ておりスマホの機種移行の時に目に入った。私はなんとなく「関わらない方が良い」と感じて、そのままにしておいたのだ。電話番号も以前の番号ではなかったので、ショートメールがその人だという確信はなかったのもあった。
その人は悪い人ではない。
ただ、怖かったのが纏っている雰囲気に生気がなかったのだ。
そして「友達でいて」とすがってくる事自体にゾッとした。
友達というものは、どちらかがすがって成り立つ関係ではない。そう思う。

物と人との関係は、スピリチュアル的なものとして語られることも多く見かけるのだが、それについては、私はあまり信じていなかった。
ものとは、便利に生きていくための道具であり、見えない何かを左右するものではないと思っていた。今も、概ね、その考えが占めているが、こういう事が三度も続くとちょっと考えてしまう。
そもそも片付けるのになぜ疲れるかというと、ものを捨てる判断を脳が連続してする事とその動作で体力を奪われるので、疲れるのであって(そう思っている)。
(そして考えるのが面倒になって片付けをやめる、結果、現状維持で散らかったまま、、、という風に捉えている)
でも、ちょっと向こうの世界のお話もあるのかもしれない。
ものが多いと、生気を失うのかもと少し思ったのだ。
何が自らを悪い方向に向けてしまうのか。物なのか、その人の心なのか。
最近、三回もゾッとしたから。
そういうことを考えてしまった。

それにしても「周囲の人は自分の鏡」というが、、、どうしたら良いのか、、、?
私は何を読み取れば良いのか。
つまり、そういうことなのか。
物が多いと、生気を失うということなのか?
それとも、、、私もあんな青ざめた顔をして生きているのか、、、?

反省すべきは反省し、解決できないことは考えないようにしている!!!
(できることはするけれども。)


コメント

このブログの人気の投稿

赤い花を見るのか、踏むのか、何もしないのか(人とわかり合えないもの)

ブランコは楽し(目線が変わる時)

地元で初めてのグループ展(第2回リベラル展)展示・受付当番編