苦杯のゴッホ展 →充実のゴッホ展
- リンクを取得
- ×
- メール
- 他のアプリ
ゴッホ展は10年以上前に一度、私の住む地方にやってきた。
今回以外にもこの10年の間、やってきたことがあったのかもしれないが、私はあの思い出からゴッホを避けていたので、意識下で見ないようにしていたのかもしれない。
遠い昔のあの日、人が多いのが理由で会場の前で鑑賞を断念し、私は着ていたカーディガンに穴を開けられ、その帰りに寄った店の店員さんと長話をして(話を断れずに聞いていたのだった)、当時付き合っていた人にすごく怒られた。忘れらないほど、すごい怒りを食らったのだ。
ゴッホは何も悪くないのだ。
あの日、絵を見ることができなかった。
車中から通り過ぎていくミュージアムを横目で見ながら「ゴッホ〜ーーーー(大泣)」と心の中で叫んだ。見れないし、怒られるし。とんだ1日だった。
ゴッホは悪くない。
だが、何かしら、、、ゴッホの自画像を見ると、あの時の苦い感じを思い出すのだった。
(今回は自画像は来ていなかったが。)
今年の初め。
年始から私は風邪気味であった。
治りかけてはぶり返し、頭痛だったりくしゃみだったり、そのうち気力もなくなってきて、ずっと横になっていた。体調は最悪だというのに「絵の価値とは一体何なのだ?」などと、私が考えても解決しそうもない世界にふけっていたのだった。
考えれば考えるほど、気力がなくなっていった。
「アホだ!!!私が考えたところで世界は変わらない。そんなことは哲学者にでも任せて、体を治せよ、私。」今はそう思えるが、その時は何かしらドツボにハマっていてまず気力がなかった。
昔の人が「病は気から」とよく言ったものよ。確かにそうだ。
病院へ行こうと思った。
「とりあえず!シャバの空気吸おうぜ!」と自分を奮い立たせた。
とにかく、私のこの体力と気力を回復させねばならぬと思って、外へ出た。
ひとまず近所の病院へ。薬でなんとかなるなら、薬に頼ればいいのだ!
開院の1時間前。
行くと、もう順番取りがしてあって、気が萎えたのだった。今、自分の意味を見失っている私が何人も待った後に受診して、やっと受けられる診察時に医師が私にいう言葉が想像できてしまって「なんだか救われない」と思ったのだった。
待つことにヘトヘトになるのは、今日は無理だ(ちなみにいつもは結構1時間とか、それ以上待っていることが多い)
今日、病院行くのやめた!!!
急にゴッホ展に行こうと思った。
そのうち行こうと思っていたが、「今日行こう」と思った!
今週はもう出費はしないと決めて、外へ出たのだが、財布には食費としてお札が入っていたのだった。
うん、行ける!!!
いつ死ぬかわからないのだから、あの嫌な思い出になってしまっているゴッホ!
当時、見ることが出来なかったゴッホを見ておこうではないか。ゴッホは素晴らしいのに、あの日のせいで悪い印象しかない。
あれを払拭して、そして”素敵なゴッホ”と記憶に塗り替えてしまうのだ!!私よ!
とりあえず電車へ乗れば、美術館に開館時間前には着くであろう。
つい癖で、時間を確認しようと時計があるはずの手首を見てしまうが、電池が切れてから電池を入れていない私の腕時計。私はコロナ禍になってから時計をつけなくなってしまった。
思ったより早く着いた。
美術館の開館時間前に着いてしまって、出入り口で待った。
もっと大勢を想定して行ったのだが、平日ということもあったからなのか。外も列が出来ている風でもなく、コロナのせいか距離を空けてまばらに待っているような状態だった。
会場へ入ると
「列を作らずに絵を見てもらって大丈夫ですよー」
と、美術館の方が声をかけていらした。密を避けるためであろう。
私は展覧会の絵は、一枚一枚をじっくりは鑑賞しない。好きな絵はじっくり時間をかけてみるので「それは助かる!」と思いながら、サクサクと進んで絵を見た。
ゴッホが悩み、色々と模索している姿も伺えて「ああ、ゴッホも悩みながら描いていたのだ」とちょっと安心したのだった。
画材を色々組み合わせて実験を伺わせる絵もあった。
素材の質感を出そうと必死になっているのが見える絵もあった。懸命にデッサンしている線などはこちらに伝わってきた。
それらを感じた時、ちょっと泣きそうになった。
なぜ、こんなに日本人がゴッホが良いと思うのかと考えた時、単純であるが「ジャポニズム」の影響を受けているゴッホは、物の輪郭を割ときっちり描き入れていて。日本人が見慣れている絵の雰囲気であった。違いといえば、画材が違うので、やはりその質感が日本的ではないところではないだろうかと、一人で勝手に思ったのだった。
私は日本という国をあまり考えずに生きてきたけれど、こうして海外に影響を与えているのを感じると「日本はすごい国なのだな」と思うのだった。
私は「緑のブドウ畑」という絵が気になった。
近くから見るとそんなに良さを感じないが、少し離れて見るとその凄さが滲み出てくる様な絵だった。帰りに絵葉書を買おうとしたが、はがきとして印刷してしまうと、あの迫力とそこにさっきまでいたあの空気が、その色が、もう消えてしまっているのだった。
私が印象に残った絵は、鉛筆で書かれた絵だった。
「刈り込んだ柳のある道」という絵、驚いた。
その木は、私が小学生の時に写生で描いた木と同じ木だった!担任の先生に「こんな生え方をした木はない。描き直しなさい」と言われた木だった。柳だったのか、、、。
「見ろ!!!!!ゴッホが描いてくれているではないか!」と心の中で叫ぶ私。
絵を見ながら、今まで注目したことのないところに注目していた。
額装である。
飾るような彫りや細工など一切ない素朴な木でできた同じ額装が続いた。自分が額装を頼んだりする様になったからであろう。絵と額装が合っているかを自分なりにチェックしてしまう。
絵を教えていらっしゃる先生に、額装のことを後日お聞きしてみたのだが「収集する人の趣味で統一されたりする」と教えていただいた。
余談ではあるが、この美術館の照明は他の美術館に比べていつも暗いそうだ。
私は海外の美術館も行ったことがないし、国内の美術館も自分の近所くらいしか訪れたことがないので何とも言えないが、先生がそうおっしゃていた「珍しい」のだと。
私は白状すると、今回のゴッホ展、何を楽しみにしていたかというとルドンの絵がやってくるということだった。ルドンはずっとモノクロの作品を創作してきたとのこと。長男を亡くしたが、次男が生まれ、それから色を使う作品を描き始めたらしい。私はそのエピソードを聞いて「生命の誕生が人に与える影響ってすごい」と思ったのだ。息子さんの誕生は、それほど劇的にルドンの中にある何かを動かしたのだろうな。それに、言わずもがな、嬉しかったのだろう。ただ生まれてきてくれたことが。だから、私はそんなルドンの色が付いた絵を見たかった。
今回、この展覧会に来たのは「キュクロプス」という絵で、その色の深みはまたゴッホと違うものを持っていて、すごく良かった。想像していたより小さな絵だった。
図書館でルドンの画集を見たが、他のどの作品も色合いが素敵だった。色の使い方が絶妙だ!
配色の才能を感じる画家は結構少ない。今までの技術に基づいて、考えて描いているのかな?と思われる人も多いからだ。素人の私が見て、そう感じるのだから。ルドンは才能がある人なのだ。
見ることが出来て良かった!
人があまりいなかったので、じっくり見ることが出来た。
ちなみにスーラの絵もすごく良くて、見ることができて嬉しかった。
そして、悲しい哉!!
「一人で来て良かった!」と思ったのだった。
(あの思い出がベースにあるからかもしれないが)
今日、これが禊(?)となった。
これで、私の中の「苦杯のゴッホ展」の遺恨は消えた。
また違うゴッホの作品がやって来たら、見に行きたいと思う。
帰り道に野鳥を見て「ししし」と私は笑いながら、少しスケッチをした。鳥が丸まってぷかぷかと池に浮いているのを見ながら、晴々として帰宅した。
あの気力のなさはどこへ行ったのだろう。
帰宅すると、どっと疲れと孤独と今日の感動が一斉にやって来て、いつの間にか眠っていた。
追記:
常設展もゴッホ展のチケットで見れる様になっていた(嬉しい!!)
常設に入った時、一人も人がいなかった。
「価値観の違いだ、、、、。」と愕然とした。
常設には、それなりに有名な絵もあるし、そこまで知名度がなくとも感銘を受ける作品もある。
皆、それは鑑賞しないのだな?という驚愕。
この美術館には何を所蔵すれば、今後、目玉になるか、、後世に残すものとして、そういうのも考えた末、美術館が予算内で作品を買い付けてくるのであろうが。
普通の人が思う価値とは、ただ有名で、高価なものなのだろうか。
良い絵というのは、その世界の人が見ても感じ取れるものを持っていて、知名度がなくても、そういうものだと思う。
最終的に世界で共通する何かを持っている作品は名も広まるだろうが、それは生きている間か、死んでしまってからか。
それにしても、地元の作家さんの作品のキャプション(作品の説明)をコピー用紙らしきもので作成し、画鋲でとめてあったのには驚いた。キャプションがペラペラの紙なのである!
作品に失礼な気がしたが、、、。
あれは誰も何も言わないのかな(←心配になる人)。
まだ、現存する作家さんの作品であったが。作家さんは、自身の展示は見に行かないのかな、、、。
そういう演出かと思ったが、前回の常設もこんな感じだったから、本当に学芸員さんは作品を大事に扱ってくれているのかと心配になった。
それとも展示のセッティングは、キャプションの作成知識のない方がたまたま担当していらっしゃるのか、、、、。
「細かいことが気になるのが僕の悪い癖です。」
最近、ドラマ「相棒」ばかりみていた私は、右京さんのいつものセリフを思い出しながら。
私は、あのキャプションと画鋲が気になって仕方ない。
追記:
上記の作家さんのキャプションの件は、専門の方に聞いたら、それは演出らしい。
画鋲とコピー紙は、その時代のその作品の演出のためだろうという事だった。
それは失礼いたしました。
- リンクを取得
- ×
- メール
- 他のアプリ
コメント
コメントを投稿