小磯良平展 幻の名作《日本髪の娘》、鑑賞

私にとって、小磯良平さんは 「絵にしにくい構図を描く人」である。 いま、私はコツコツとパースを勉強している。 もちろん独学だ。 テキストは普通に書店に販売されている本だ。 買うには高い本であったが、丸善がビニールをかけずに内容を見れるように書架に置いてあったので、内容を確かめてから購入した。 三点透視図はなかなか描く機会がない構図だと思っている。 漫画やアニメならよく見かける構図ではあるが、絵画はあまり見かけない。 見かけたとしても「良い作品か?」と見るにはとても難しい。 自然な感じがしないからだ。 人物のパーツの中にも三点透視図が出てくる。例えば、足を奥にひっこめているなど。椅子に座っている人などの足はこれだと思う。(私はアカデミックの教育を受けていないのではっきりとは言えないが) この構図を描くのは画力がいる。 この目で、自然に見えてしまう三点透視図を見たかった。 家計をやりくりするのに、毎月うなってしまう私ではあるが、ここはわが町に展示が来た時に見ておかないと、多分この先、もう見ることはないだろう。 会期終了が近いせいもあり、図録は売り切れていた。 2200円か、図録にしてはお安いのではないか。 欲しかった。 でも、仕方ない。 割合としては人物画中心で、静物画が少し。という内容の展示であった。 「ああ!この構図は描くのがむずかしい」 という作品がいくつもあった。 《和服の婦人像》などもその一つだ。身を乗り出しているご婦人のからだ手前と奥に行く、その描き分けが難しいと思う。 そして、やはりプロでいらっしゃると思った。 私は写実作品の鑑賞が苦手だと思う。。 生々しすぎるからだ。 写実作品でも苦手じゃない作品も、もちろんある。 写実作品の中でも見て疲れる作品に、たまに出会うことがある。その作品は、未熟だと思う。自然にこちらに入ってこないからだ。写実だが、写実の度がこえると生々しくて現実っぽくないから。つまり、不自然に見えるのだ。 小磯良平さんの作品はそうではなかった。 生々しくなる手前で止めてあり、全体がギラギラとしてくどくない、しっかり強く描くところと抜いて描くところ、両方のバランスがとれている。 私のようなアマチュアであると、それがうまくできていないことが多い。 だから見る側として、見るのに疲れる作品になりがちになってしまうが、プロは違う。 光の入り方も嘘を描い...

傲慢と優しさの関係

「本格的な老人になったなぁ」
「私たちは、もう今よりずっと前に老人ですよ」

そこには、それぞれが少し微笑んだ口調があった。
老夫婦が階段の両端にある手すりにそれぞれ左右に分かれてつかまり、ゆっくりと会話をしていた。ご夫婦とも白髪で、一歩一歩を確かめるようにそろそろと階段を下りて行った。
ご自身で認めた通り、世の中でいう「老人」という世代なのだろう。
その後ろを歩いていた私は、自分は左右のどちらに寄って歩けば良いのか悩み、その階段の真ん中を歩く選択をした。二人がゆるゆると下りて行くのを私は後ろからそっと見ながら、それに続いた。
左右に分かれて階段を下りていた二人は手すりがなくなって普通の道になると、体を寄せ合って歩き始めた。
「そうか。もう老人か。」
「そうですよ。」
あんな風に優しげな口調でお互いに歳を取ったことを確認できるのは、なんと素敵に見えるのだろうか。



「君たちは自分のこと死なないと思っているだろう?」
なぜ、いつも複数で呼び掛けられるのか。きっと私のことを世の中の普通の一人に数えているのだ。人生の師匠の前では、私は「普通の人」らしい。
「私は、いつも明日死ぬかもと思っていますが?」
人生の師匠とは、こういう話をする。
「君たちは過去を見つめ、未来を不安に思い、今を大切にしない。なぜ、今日という「今」を大切にしないんだ?」
心の中で「私たちは暇なのだと思う」とそっと呟く。忙しいとそんな些細なことは考えない。考える暇がないからだ。それに、体に関していうと「栄養が偏っているのだ」と自論を心の中で言う。体がしっかりしていれば、小さなことをくよくよ考えないし、ましてや過去なんかどうでも良いと思える。私はそうだ。
「今の状況があるから、あなたは絵を描いたのだろう?」
「そうです。私の人生で、あんな大きな絵を描くとは思わなかった。私は幼少期に画家になることを諦めた人間でしたから。」
「今だからできたんだよ。「今」できることをしたらいい。」
私は、それは常に頭にあって、公共の場で自分の絵を見てもらえるように公共のギャラリーの貸館申し込み申請を先月した。審査があるので、通れば個展を開催できるが、落ちた時は、また半年後に申し込む予定になる。

「僕のことを『わからない』という人が多いんだ。」
私は、自分のことをわかってもらう必要はないと思う。咄嗟に話を変えようと、神社で今年初めて引いたおみくじの内容を口にした。
「引いたおみくじに、人に優しい言葉をかけなさいというようなことが書いてありました。希望が持てるような言葉を使いなさいというような事が。」
すると、師匠は少し笑いながら私に言った。
「僕は人に優しくしないことにしている。優しくすると、自分が傲慢になるからだ。」
「それは人に期待するということでしょう?これだけしてあげたのだから、これだけ返せと。それで傲慢になるのでしょう?期待しなければ良いではないですか。」
すかさず、私も返す。
「そうだよ。期待などしない。自分が傷つくからね。」
師匠は私よりずっと繊細なのだ。人間らしい、誰もが持つような、誰もが見逃すような小さな欲も自身に対して許せないのかもしれない。
師匠は人から何かをもらうのがすごく嫌ったが、歳をとったせいか、この頃はそのまま受け入れるようになった。その時に「僕も歳をとって、まるくなったよ」と言ったのだった。


一年。一年と歳をとる。
親類の子に言ったことがあった。
「若い時は、若いという自覚がないのよ。歳をとって初めて「あの時は、若かったのだ」と気がつくよ。」
「俺は若いという自覚があるよ。俺はまだまだ新参者だから。」
そう返されて驚いたが、話を聞くとそうかもしれないと思った。彼はゲームという世界で多くの年齢層の人と話をしていて、自分の若さを自覚するのだそうだ。それは彼がゲームをしている時に、話す口調を聞いているとそう思えたりする。

時は流れている。環境も、人間関係も常に流動している。
時々、自分一人が置いていかれているような気持ちにもなる。
「常に毎日が新しく、二度と来ない」のだということ。それは大晦日の日に引いたおみくじに書いてあった。
今できることをやる。
私は一人で歳を取る覚悟でいるが、その時は一人で自分が「本格的な老人」になったことを優しく確認できると良いなと思う。



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