『もっと「好き」の因数分解』最果タヒ(著)、読了。

そうだな。 この方の展示を見に行ったことがある。 街のギャラリーであった。 その展示は、印象に残る言葉の組み合わせを多く見た。 懐かしいな。 そのギャラリーは今はもう無い。 あんな風なギャラリーはもう私が住む街には作らないのではないかな。 谷川俊太郎さんの展示も過去、見に行ったことがある。 言葉を扱う人で有名になる方は、必ず万人に伝わるかということをしっかり考えていらっしゃる。 万人に好かれるものを作る人は、その人自身に興味を持たれる訳で。 エッセイというのは、ファンにとってはとても嬉しい読み物ではないだろうか。 この本は、著者の好きなものについて。 その数、56個。 ライブハウス、オペラケーキ、コメダ珈琲店、植物園、花屋、オパール、船旅、レース、薔薇、真珠、ムーミンシリーズ… などなど 前作に『「好き」の因数分解』という本があるらしいが、私はそちらを読んでいない。 作品とは自分を晒すことだ。 詩人は言葉の使い方で、その人自身をさらしている訳であるから、この方の核みたいなものが本当に見えるエッセイだと思う。 最果タヒさんがどんな方なのか、それが顕著にわかる本だと思う。 最果さんの詩を読んで好きになった人がこれを読んだら、もっと好きになるのではないかな。 万人が持たない感受性がここにある、という印象の内容であった。 最果さんが好きなものの中に「RRR」があった。 インド映画である。 「落雷と祝福」の著者、岡本真帆さんも好きなものの中に「RRR」を挙げていた。 私はずっと気になっていた「RRR」が。 言葉を操る方方が好きな「RRR」!! ぜったい面白いに違いない。 調べると3時間の超大作であった。 来月、見る機会があるので見る予定でいる。 この本の全体的な印象は「誰からも愛されるお手本」という感じだった。 それは嫌味ではなく、わかりやすい言葉でみんなの心をつかむことが上手だということを私は言いたい。 実に、うらやましい。 私は言葉の使いかたが上手ではない。 だから、できるだけいつも気を付けて話すようにしているが、どうだろう。 うまく伝わっていない気がする。 私もなにか自分の「好き」なものを探ってみようかな。 そんな気持ちにさせる本であった。 「何が好きか?」と聞かれると、そんなにサッと出てこない気がする。 そうだな、好きなものを探してみよう。 そして、へたくそな言葉使い...

104回目:そのものの向こう側を描くということ(写生の大切さを考えた)

写生がいかに大事かを最近知った。

私はとにかく、自分が描きたいように描いてきたし、作品作りはここ数年始めたばかりなので、本当に何も知らずに絵の世界に飛び込んだ。
美術史がどんなに大事か。
本物の絵を見ることがどんなに大事か。
そんな基本的なこと本当に知らなかったし、考えることもなかった。
というのも、私が人生の中で時々通った絵画教室というのは、とにかく「趣味で絵を描く」という場所だったからだ。切実に、そして真剣に絵を描いている人はほとんどいなかったと思う。軸となる生活があって、そこに添える楽しみの一つといった感じだと思う。
私もそうだった。とにかく、仕事以外に何か楽しみが欲しかったから、勤務者であった時は絵画教室に通っていた。
ただおしゃべりに来ていた人もいたし、何となくそれっぽい絵を描いていた人もいた。
そう、技術的に上手い人はそんなに習いに行く必要がないので、そこそこうまい人や絵が好きな人が通っていた印象だ。
それもそうだろう、描ける人は絵画教室の先生だったりするのだから。本当に上手い人は、習う側ではなく、教える側なのだから。
ただ、驚くのが時々、絵画教室でデッサンもきちんとできない「絵がただ好き」という中途半端な人が先生だったりすることもある。私は、申し訳ないがそういう先生を見るとモヤモヤした。
それはなぜかというと、私は趣味とは言え「絵の技術を習いたい」からという気持ちがあったから、物の形をきちんと捉えることができない人に教えてもらうのは意味がないからだ。
教室に通ったがどの先生も「とにかく描け!」という先生がいなかった。
いや、、、一人いた。
私に絵具を下さって「デッサンはもういいから、作品を描きなさい」と言ってくださり、だらだらとデッサンをしていたら、その先生だけは私を怒った。
「もういい!!私が描く!」
そう言って、木炭をとり挙げられたことがあった。
私は昔から描くのが遅くて、学校の美術の授業でもよく注意された。
あの時は本当に、久しぶりに「描くのが遅い」ということを注意されて、懐かしいとも思ったし「もう義務教育の時期は終わったのだから、私は怒られながら絵を描く筋合いはない」と思ったのだった。
 I先生には、今も感謝している。
私が実際に作品を描くようになったのは先生がきっかけだったと思うからだ。
この恩師、I先生は「写生をしなさい」とは言わなかった。
きっと私に作品の構成力というものを教えたかったのだろうと思う。
「好きなものを二つ組み合わせて絵を描きないさい。何でもいいから、写真を用意して。」
そこから作品作りが始まったのだが。

振り返るとやはり、、、、
「写生をしなさい」
と言われたことはないのだった。

写生は写真とは違う。その時、その対象物を見て、自分が感じたものとそのものの印象を描く。そのものの向こう側を描くことになる。
絵が好きな方々は美術館だったり、街のギャラリーや画廊だったりで絵を見たりすることがあると思うのだが、時々「本物のように上手い絵だけど、何か心に何も残らないなぁ」と思う絵を見たことがないだろうか?
私が思うのは、そう感じた絵は「そのものの向こう側」が描かれていない絵だと思う。
ただ上手いだけの絵ならば、写真でいいのだ。そう思う。
良い絵というのは、描く対象物に対して、描く者の感動や感じた美しさまでもが描かれた絵だと思う。
そういう絵は、見る側の心をうつ何かがある。

昔は写真がなかった。だから、今よりもずっと写生が大事だったのだと思う。
写生はそのものをその時にその場所で見たときの印象をその場で書き写す作業だと思う。
でも、これで終わらない。写生した絵は家に持ち帰り、さらに自身の心で精査する。
今は写真があるので、私が最近行った写生は、写生した後に、写真も撮って帰ってくる。
説明がうまくできないが、写真で撮ったものの印象と自分が感じて描いた(写生)の印象は別物だということだ。
持ち帰って、家でやる作業からが苦労する。
自分の見たその対象を描いた絵を見ながら思い出し、さらに詰めていく。そして、下絵を完成させる。当然、写真にはない描いた人の心や印象がそこに入り込むのである。

この説明で写生の大切はわかっていただけるかどうかはわからないが、今、私は「写生」というものをこんなふうに捉えているのだ。
それで「写生」に取り組むようになった。
きっかけは日本画に関する本だった。
日本画という概念は明治にできたものであるが、本を読んでいると、日本画を描いてきた人達は本質を捉えようと実物を見ては描き、日々努力していたのが見えた。それも楽しそうに。私が「すごい」と思った画家達は「描くのが楽しい」ということを大事にしている。産むことの苦しみを知りながらもなお、描くのだった。
それがものすごく私の希望にもなった。

写生の大切さをこんなふうにじっくり考えたことはなかったが、振り返ると、それに近いことは今までいつの間にか行っていた。
通勤時に電車を待つ人をクロッキーしたり、最近は病院帰りに川で鳥を描いて帰宅することもある。そうやって、私は写真ではない本物を見て描いてきたのだった。

私のこの弱い体では、絵が描ける日と描けない日があるが、それでも私は「そのものの向こう側」を描きたい。

そして、また誰かに絵を見てもらいたいと思う。


コメント

このブログの人気の投稿

ぽつんとすること

「落雷と祝福」岡本真帆(著)、読了。