野球と私(12)「ベースボールと野球 知っているようで知らないその世界」大熊廣明(監修)、稲葉茂勝(著)、読了。

ここ数年、プロ野球を観戦している。 中継番組であったり、ラジオであったり。時と場合により使い分けて観戦している。 応援しているチームが勝つとすごく嬉しい。 いつの間にやら、プロ野球が好きになってしまっていた。 私は、ちびまる子ちゃんと同じくらい野球が好きではなかった。 「野球見るくらいなら、他のテレビが見たい」 そういうよくいる女子小学生であった。 そのまま大人になったのだが、勤務先の女子たちに誘われて、一緒に野球観戦に行くようになり。退社してからは、ずいぶん長い間、野球を見ることがなく。 観戦に言っていた時ですら、同僚女子に 「今の何?」 「ストライクKって何?」 といちいち聞くくらい野球を知らなかった。 (ちなみに、今はもうストライクKは知っている。三振のことである。) それくらい野球のことは詳しく知らない。 中学生の時は部活動の勧誘などのプリントを見た時に「軟式野球」もよくわからなかった。 硬いのと柔らかいのとどう違うのか?など。 それは普通はみんな知っていることなのかどうかすら、興味がないから誰かに訊くこともなかった。 興味が出てしまったゆえに、この本を読んだ。 軟式野球は日本で生まれた独自の野球だそうだ。 そもそも野球の道具が高価なので、一般の子供たちには手に入らない。子供たちがはじめた野球ごっこがその始まりのようである。安く手に入りやすいボールが軟式ボールだった。 そもそも柔らかいボールであればケガもしにくいから。 ただ、やはりプロ野球選手が硬式ボールを使っていると、硬いボールを使いたいあこがれを抱くのは当たり前で。 少年野球とリトルリーグも違うとのことだ。 少年野球は軟式、リトルリーグは硬式のボールを使うそうである。 なので、リトルリーグの方が盛況なのだそうだ。 因みに、ベースボールの発祥はイギリスの子供たちの遊びからだが、ベースボールとしてのルールがはっきり制定したのはアメリカで、お互いに「うちの国が発祥」と言っているようである。 、、たいへんだな。 日本に伝わったのは明治時代で「野原でやる球技」で「野球」となづけれらた。 驚いたのが、野球用語を作った一人の中に正岡子規(歌人)がいて。 「死球(デッドボール)」「四球(フォアボール)」という用語を作ったのは子規なのだそう。漢字ってすごいな。二文字で「ああ!あれか!」ってわかる。それを作った人もすごい。...

人生の師匠と私(2) 「中心我と周辺我」は、「如来と菩薩」に似ている。

私は仏像のことをそもそも知らなかった。

その顔は全部、同じように見える。
種類など考えたことはない。

でも、見ていて違和感がなく、スッと入ってくるということは、稚拙な技術ではないということである。鑑賞時に、違和感を感じるとそこばかりに集中して、作品の意図や良さが見えなくなる。
私は、そうだ。
美しい造形だと思う。スッと入ってくる。

そう、仏像はいつ見ても全部同じようにしか見えなかったのだった。
それは仏像のことを知らないからでもあると思う。
人は知らないことを知ると、それから先は注目するようになるのだ。今まで全く気にしなかったことも。
そして、人に話したくなるのだ!

私は知った。
本を読んで、仏像に種類があることを。
如来(にょらい)
菩薩(ぼさつ)
明王(みょうおう)
天部(てんぶ)

如来と菩薩の違いは何かというと、悟りを開いたか開いていないかなのだそうだ。
如来は悟りを開いているが、菩薩は悟りを開いていないから煩悩があり、冠をかぶりアクセサリーをじゃらじゃらつけているらしい。
確かに!!
時々、布以外にじゃらじゃらつけている仏を見るけれど、あれは菩薩か!

早速、それを人生の師匠に話をしたところ
「中心我と周辺我だね」
という話になった。
中心我と周辺我は、心理学用語らしい。(確認はしていない)
中心我、自分の中心になる部分、感情など。
周辺我、自分を取り巻く環境、社会的な役割など。
如来と菩薩で心理学の話になるとは思わなかった。
さすが私の人生の師匠!!

私の人生の師匠は、読書を始めたのは大学生の時らしいが、話を聞いていると、人が読みそうもない本を難度の高い本を暇つぶしに読んでいたりする。
昨年は気象予報士の資格検定本を読んだらしく、私に空には空気の層が何層もあって、雲が同じ方向に流れていないことを教えてくれた。勝手に、雲は全部同じ方向に流れていると思っていたが、よくよく考えるとその方がおかしいな。
師匠は心理学の本を読み漁ったことがあったらしい。
自分が考え方と周りの考え方は違うのだと、いつも教えてくださる。
心を強くするには周辺我を強く大きくしていくことが大事だと、世間は唱えるそうなのだが、師匠は中心我を整えることが大事だと思っている。

「あなたの話からすると、、、如来と同じだよ。中心我がしっかりしていたら、アクセサリージャラジャラつけてみてくれよくしたり、地位とか名誉とか自分をよく見せるようなものがいらないでしょう?」
「菩薩じゃなく如来になったらいいってことですね?」
「そうそう。周辺我より中心我が大きいほうが、生きていきやすいと思うんだ。アクセサリーが増えても根本が整ってなかったら、何にもならない。」

アクセサリーはほとんど持たぬが、悟りはやはり開いていない私。
私はやはり如来にならねばならない。
目指せ!
如来!!!!!
菩薩ではなく如来!!
でも、なぜだろう。
少し社会に触れると、アクセサリーが羨ましくなるのだ。あのジャラジャラが羨ましいと思ってしまう。「私もみんなと同じようにあの冠をかぶりたい」って思うことがあるのだ。
悟りを開いていないのに、悟りを開いているように見える菩薩が羨ましくなるのだった。
師匠はもう周囲から「悟りを開いている」と言われているらしいから、すでに如来なのだっった。

ちなみに
「明王(みょうおう)」は人間の煩悩や悪きものを追い払うために怖い顔をしているのだそうだ。
「天部(てんぶ)」は、仏教ではない違う宗教や神??らしい。アシュラ像などが、その例にあたる。

私はこの中でいうと、もしかしたら明王かもしれない。
煩悩を追い払おうと怖い顔をしているけれど、追い払えずにいる怖い顔のままの明王かもしれない。
それなら、せめて穏やかな顔の菩薩になりたいと思う私だった。
違う宗派である「天部」くらい突き抜けた存在であれば、私も悩まずに済んだのではないかと思ったりする。

それにしても、これからは仏像を見たらきっと「このかたは、悟りを開いたのだ」とか「このかたは、開いていない」とか瞬時に思うに違いない。
仏像を見るのが楽しみだな!
知ることは楽しいな。
如来が菩薩と違って、どんな表情をしているかなど、注目してみたいと思う。
なりたい人に近づくように、観察することはきっと勉強になるだろうから。
目指せ!!
如来!!!!!






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