「むらさきのスカートの女」今村夏子(著)、読了。

なんと気持ちの悪い。 感想も書かない方がいいのかもしれぬ。 わたしは世間とずれたところがあるので、この感想は世間的には正しい感想ではないと思う。あくまでも私個人が感じたことであって。物語は秀逸であると思う。 とりこぼされた世界で生きる私は、この気持ち悪さを話す人もおらず、自身で消化できずにいる現状を文章にしておく。 この本は2019年の芥川賞の作品らしい。 著者の紹介欄を読むと、他でも多く賞をいただいていらっしゃるのであった。 昨日、外に出る用事があって、久しぶりに図書館へ寄った。 このところ物語を読まないから小説を読みたかった。 図書館にはひとつ前のベストセラーコーナーなるものがあって、そこを漁った。 棚ではなく、ブックトラックに乗せられているからだ。 このところの気温変化に体がついていけないから、長編を読む気力と体力がない。 比較的厚みのない本を選ぼうとして、その中から表紙で選んだのがこの本だった。 タイトルが「むらさきのスカートの女」であるのに、表紙の絵は黒の水玉柄の大きな布の中に子供が二人にいるような絵である。二人分の足だけが見える。 帰宅後にきがついたのだが、表紙裏は黒いリンゴの絵だった。 なんだかいけないものを借りてしまったのではないか?そんな気持ちになった。 わたしはこのところ、キャンバス作りばかりしている。 キャンバス下地が乾くのを待つ休憩時間に読書しようと決め、、、、 「ここで途切れるのも」と思って、そのまま読み、 二時間で読んでしまった、、、。 むらさきのスカートの女は、客観的に観察されて物語が進むのだが。 読み進めるうちに「このむらさきのスカートの女をずっと見ていて観察している人が気持ち悪い」と第一の気持ち悪さにぶち当たり。 第二の気持ち悪さは、職場の正義をそのまままねしたむらさきのスカートの女であるが、それがあだとなり周囲から孤立してしまうこと。 第三に、結局自分のことしか考えていない職場の局長とチーフたち。むらさきのスカートの女も自分のことしか考えていない。 この本のすごさは、人間のほんしつをこんな風に物語で示したことだと思う。 なるほど「芥川賞」だと思う。 感受性が強い人はきっと感じるであろう。 人間という動物の傲慢さを。 それを「むらさきのスカートの女」という人物を通して物語にしてあるのがすごい。 私は気持ち悪くて仕方なかった。 この本...

罪と穢れ

「名前がついているということはいいな。
周りを見渡すと当たり前に名前がある、自分の名前も。」

そんなことを考えながら帰宅した。
神社に寄付をした方々の名前が石にずらりと刻まれているのをみてそう思った。

このところ、感情があまり動かない。
何を見ても俯瞰している自分がいて。
共感して涙を流す、とか。
そういうことができなくなってしまった。

毎年6月30日は、神社の神事に参加するようにしている。
半年たって、自分が目標にきちんと向かっているか確認する。そして半年、無事に生きたことを神様(もしいるのなら神様)に報告するのだった。
「夏の大祓式」(なつのおおはらえしき)というらしい。

調べると
「半年の罪や穢れ(けがれ)をはらい清める行事です」
と書いてあった。
この半年の私の罪とはいったい何だったのだろうか。

6月30日。
暑かった。
私はそもそも暑さに弱く、熱中症にかかりやすいので、行くかどうか悩んだ。
いつもお世話になっている神社は山の上にある。
15時。
暑さが真っ只中の時間帯。
それでも、ここ数年つづけている習慣をやめたくなかった私は、神社に向かった。

平日なので、そこまで混んでいないだろうと勝手に思っていた。すでに参道には短い列ができていた。
神事は、拝殿で行われる。
普段、手を合わせる時は、中に入れずに垣間見るだけの拝殿。
この穢れを払う神事の時は拝殿の中に席が用意されていて、神事を垣間見ることができるのだった。その席に座るための列であった。
割と何度も訪れている割には、私はいつも遅めに到着していたので、拝殿に入ることはあまりなかった。
拝殿に入るのは、今回で2度目の経験だった。
席は10席くらいが横にずらっと続き、それが5列あっただろうか。(その辺はうろ覚えなので、感覚で書いてみている。ごめんなさい)
左右の両端の2、3席は神事が見えない席になる。映画館の座席を想像していただくとわかりやすいと思う。
当然、真ん中の席が見えやすいわけで、、、、

私は驚いた。
両端を空けて、つめずに座っていく人々を見た。
私の勝手な思い込みと言われたらそれで終わりなのだが、列は当然そのまま前から席を詰めて座るだろうと思っていた。
映画なんかとは違い、席を指定して料金を支払っているわけでもないし、神事も10分程度だから、長時間ではない。
私は空いている端の席に詰めるように座った。
私は拝殿に入ることもありがたかったので、端でいい。

神事はまだ始まっていないというのに。
帰りたくなった。
「自分と家族、または友人が神事を見れたらいい」
席をつめずに端を空けて座った人は、そういう考えなのだと思う。
そんな人が多くいたことがショックだった。
何だか、穢れを落としに来た自分もひどく惨めに思えた。
「神様に頼りすぎかも」と反省した。
誰かに頼って穢れを落としてもらうなんて、そもそもよくないのではないかしら。
ただ、神様は優しいから、きっとこういう光景もみんな許してくれるのだろう。
「穢れ」を目の前で見てしまった日だった。

「それが普通なんだよ」
いつか人生の師匠が言っていたのを思い出した。
それが普通なのだと。
だとしたら、私は普通じゃなくていい。
あの普通を、私は許したり、あきらめなければならない。
いや、許したい。
あきらめたい。

神事は、宮司さんが何かしらの言葉を神様に伝えた後、神社から配られる紙に包まれた紙ふぶきと藁を個々で取り出し、左、右、左と肩に乗せて、それを払うのだが。
あの方々の穢れは、紙ふぶきと、藁に乗って吹き飛ばされたのかな。
私の穢れも、吹き飛ばされたかな。
きっとあの方々は、自分がたった今、ここで見せた穢れに気がついていないだろうな。
私もきっと、いろいろな人に悲しい思いや不快な思いをさせてしまったに違いない。
それが罪と穢れなのだろうか。
半年のこの穢れと罪が払われていますように。

おみくじをひいた。
「大吉」だった。
ありがたかった。
神様は、泣きそうだった私の心を少しだけ救ってくれた。
そう思っている。

他人に共感しなくていのではないか。
無理に世間に合わせようとしていた自分がいた。
神社へ行ってそう気がついた。
私は私なのだから。
名前がついた時から、私は私で唯一無二なのだ、と。
どの人も唯一無二なのだ。

どの人の罪も穢れもはらい清められていますように。
今年も無事に半年間、生きることができて良かったと思った。
ありがとうございました。












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