「デモクラシーのいろは」森絵都(著)、読了。

 小説は久しぶりに読む。 体調の悪い日は、体が動いてくれない。 ただ意識があるかないかで、ずいぶんその日の過ごし方が変わる。 頭がぼうっとしていなければ、、、つまり意識があれば、文字は頭に入ってくるから本を読む。 途中で眠ってしまっている場合もあるが、それはそれでいい。私がコントロールできることではないから。 なぜ、この本を選んだのか? よく覚えていない。 図書館に予約しておいた本であった。 いつも忘れたころに、私のところに回ってくる。 ありがたいと思う。 ありがとうございます。 タイトルをみるとわかるけれども「デモクラシー」は「民主主義」のことである。 ”デモクラシー”と聞くと私は「大正デモクラシー」という言葉しか思い出せなかった。 それくらい私は勉強が苦手なのだ。 それに私にとって、民主主義は非常に幻想にすぎないのだが。 それは若いころも今も変わらない。 舞台は戦後の日本、「GHQが日本人に民主主義を教える」という実験をするために教師として選任された日系二世の男性教師と、実験に選ばれた四人の若い日本女性の物語である。 もう少し詳しい内容が知りたい方は公式のサイトを見ると、物語の全体像がつかめるのではなかろうか。 序盤、私にとってはとても読みづらく「あきらめて動物の本(小説ではない本)を読んじゃおうか」と放り出したくなったのだが、三分の一読んだ辺りから、その先が気になってきて結局さいごまで読んでしまった。 読了できて良かった! 私なりの感想、気づきをここに書こうと思う。 (他の人が注目しない点に目が行ってしまっていると思われるが、そこは気にしない。私は私であるから。どうしようもない。) ・人は栄養が足りてないと頭が回らない。 改めてそう思った。 この点に注目してしまうのは、私の虚弱体質があるからだが。 戦後の日本が時代背景にあり、集まった四人は日給が出るのと、食事が支給されることにより実験を引き受けたようだ。食料や服を調達するのに苦しい時代であったから、条件のいい職だったのだろう。後半部分の「第七章、罪と罰」は登場人物である美央子さんの日記形式で物語が描かれるのだが、栄養をとるようになって頭が回ってくるようになった、、、というような一文がある。 私は改めて、食事の大切さを思った。 戦争で何もかも無くなった日本人が各々で立ち上がるにはまず食事という当たり前の...

ことばと音の記憶

最近、「絵本を見る眼」という本を読んだ。
絵本の編集者をしている方が書いたエッセイになる。

他人の考えを本で読むというのは面白いな。
知らないことを知る。

「絵本を見る眼」
もうどんな内容の本だったのかは、あまり記憶にないのだけれど。
人間が言葉をおぼえるのに、やはり「音」からはいる事ということ。
それを痛感したのだった。

私は、そもそも貧しい生まれのものなので、友人たちの自宅へ遊びに行くと、自宅にはない文化にふれることが多くあり、その環境の差を思い知った。
音。
音か。音の思い出。
友人宅で、流れていたビートルズ。
小学生のころだ。
自分の家にないものが沢山あった。
部屋に英語の曲が流れている。
それだけで衝撃的だった。
私の家では母が音楽を聴くことを見たことなかったな。母の耳は片方聞こえないから、それで音楽とは遠ざかっていたのかもしれない。そうだな、時々美空ひばりさんの曲「川の流れのように」を口ずさんでいた。あの頃は、テレビで歌番組がたくさん見れた時代だから、母が音楽を聴く媒体はテレビだったかもしれない
いつも懸命に働いて、養ってくれた母だ。それなのに、今も親孝行できずにいる自分を悲しく思う。

絵本の読み聞かせがどれだけ大切か。
それはよくわかった。
私の記憶では、母の声で本を読んでもらったのは、保育園までであった。
この「絵本を見る眼」という本を読んで思ったのは、小学生になっても、親は子に本を読んであげるほうがいいということだ。
小学生低学年は、まだまだちいさい子供で、大人と接することが多いほうがいい。
ご両親が読んであげる本とその時間で、小さなひとは美しい言葉を学ぶだろう。
そう思った。
ほとんど自宅で過ごす私がたまに外に用事があって出かけた時、スマートフォンの動画に子守りさせている大人を見かけると、切ないきもちになるのだが。
周囲や社会が子供が泣くということに厳しいと、簡単に泣き止む方法をとるしかないから、なんともいえない。だから、スマートフォンを使っての子守りも一概には責められない。
不思議と子連れの外国の観光客ではそれは見かけないが、日本の人では、よく見かける。なぜだろう。
スティーブ・ジョブズが自身の子供にはスマートフォンを与えなかった話は有名だ。私はジョブズのような上司は嫌だが、自分がもし親だったら、ジョブズと同じことをするだろうな、たぶん。

私個人としては、小さなひとは泣くことも多いだろうが、その時間も大切にしてほしいと思う。
その小さなひとの、その時。
それは、その時しかないからだ。
小さなひとのその時その時の積み重ねがどんな印象であったか、小さい時の記憶が後の人生は「たのしい」と感じるかどうかが決まると思っている。
小さなひとたちにたくさん幸せな記憶を作ってあげてほしい。
人生に絶望しないような、山や壁をのりこえられるような、そんな楽しくてきらきらした時間をたくさん一緒にすごして、幸せな記憶を。
人生の中で、小さなひとたちと出会えた方々は、ぜひ。
幸せの記憶があれば、人生の中で何かしらが襲ってきても乗り越えられると思っています。

そんな理由で、きれいな言葉や楽しい言葉を使うことを推奨する。
子供は音で言葉を覚えていく。

音としての「日本語」は他国からみたらどうなのだろう。
美しいのだろうか。
モーツアルトは、ドイツの出身だが歌劇をつくるにはイタリア語のほうが美しいからといって、イタリア語でつくったらしいが。
そうだなぁ。
人の声は楽器ともいえるから、音が美しい言語を選ぶという作り手は本当に優秀な人なのだなとおもう。
母国語でさえ、まともに話せないわたしはそう思った。

このところ、私はまた英語の学習をしている。
私はカタカナ発音で座学だけの英語を学んだ世代であるので、基本的な単語はどうしてもカタカナ発音の印象なのであった。
そう、これも音の記憶だ。
若い時の五感に関する記憶というものはずっと続いていたりするのだな。
英語は単語と単語の間をつなぐとき、略すと音が変わることも多いから、母国語が英語の方の質問はかなり聞き取るのに難易度があがる。対して、英語が母国語でない方の英語のほうがききとりやすい。それは、単語一つ一つを丁寧に言ってくれることが多いから。
あいかわらず、街に出ると外国の方によく道を聞かれる私だった。
ただ日本に訪れている外国の方は、基本、優秀な方々なので日本語で返しても通じることが多い。様子を見て通じていないときは、私の拙い英語で伝えるのだが。
とっさに英単語が出てくると踊りたいくらいうれしくなるのだが、ほとんどそれがないから私はアウトプットができていないのだなと反省したのだった。
多言語ができると、きっとモーツアルトのように何かしら創作物に活かせることもできるのだろうな。
何とかわたしも多言語の知識をすこしでも作品にいかしたいものだな。
そうだな、活かすなら母国語が先か!日本語は表記がカタカナ、ひらがな、漢字と三種類で表現できるからまずそこから考えたいな。
日本語は日本語の美しさ、響きがある。
未来を担う人はぜひ母国語のすごさに気が付いてほしいな。

体調がよくなって、うまく年をとれたら絵本の読み聞かせのボランティアに行きたいな。
こんな感じで、この記事は終わろうと思う。







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