フェイスブックを削除した日

私がフェイスブックを始めたのは、自分の絵画作品を広めるためではなく、英語学習の勉強会に参加したいからであった。 その勉強会はフェイスブックで告知され、その日のその時刻にZOOMに集まり、ZOOMを通して各々が自分の英語学習をするという勉強会だった。 その会に入るのに、フェイスブックで招待していただく必要があったのだ。 だから、フェイスブック自体のアカウントがないと何も始まらなかった。 いざ、フェイスブックを作り、勉強会に招待していただいたものの、、、 勉強会はいくつか開催されていて、どの方もかなりの達人に見えた。 そして、お仕事以外の時間は英語に集中している姿勢が見られて、私は怖気づいた。 私はだらだらと中学英語の勉強をしてきたからだ。 学習はまだ高校の域にも達しておらず、飛び込むことができなかった。 初級者向けの勉強会もあったのだが、早朝4時や5時の開催であったため、そこまで英語に対する学習の決意が持てず、フェイスブックは放置されたままであった。 絵画作品を発表するようになってから、インスタグラムのアカウントを作成した。 わけもわからずに、フェイスブックとインスタグラムを連携させてしまったのが、こういう世界に疎い私をさらに混乱させることとなった。 とりあえず、以下は備忘録としてつづっておく。 これは私がやったフェイスブックの削除手順になる。 インスタグラムのアカウントは残すことにした。 フェイスブック(以下、FBと略す。) インスタグラム(以下、Instaと略す。) フェイスブックとインスタグラムとの連携解除の手順 FB(pcサイト)からログイン。 右上の自身のアイコンをクリック。 「アカウントセンター」の左側一覧「コネクテッドエクスペリエンス」をクリック。 各項目をすべてオフにした。 私が連携解除するためにインターネットで検索するも「連携解除」をオフにするボタンなどがなかった。ネットで検索した方法はFBのアプリからの方法だと思われる。 年々仕様に変更があることも多いので、最新の情報ではなかったことも、方法にたどり着けなかった原因の一つだと思う。 連携させる情報は多かったが、連携解除方法はヒットしにくかった。 フェイスブックのアカウントを完全に削除する FB(pcサイト)からログイン。 右上の自身のアイコンをクリック。 「アカウントセンター」の左側一覧「アカウント...

ことばと音の記憶

最近、「絵本を見る眼」という本を読んだ。
絵本の編集者をしている方が書いたエッセイになる。

他人の考えを本で読むというのは面白いな。
知らないことを知る。

「絵本を見る眼」
もうどんな内容の本だったのかは、あまり記憶にないのだけれど。
人間が言葉をおぼえるのに、やはり「音」からはいる事ということ。
それを痛感したのだった。

私は、そもそも貧しい生まれのものなので、友人たちの自宅へ遊びに行くと、自宅にはない文化にふれることが多くあり、その環境の差を思い知った。
音。
音か。音の思い出。
友人宅で、流れていたビートルズ。
小学生のころだ。
自分の家にないものが沢山あった。
部屋に英語の曲が流れている。
それだけで衝撃的だった。
私の家では母が音楽を聴くことを見たことなかったな。母の耳は片方聞こえないから、それで音楽とは遠ざかっていたのかもしれない。そうだな、時々美空ひばりさんの曲「川の流れのように」を口ずさんでいた。あの頃は、テレビで歌番組がたくさん見れた時代だから、母が音楽を聴く媒体はテレビだったかもしれない
いつも懸命に働いて、養ってくれた母だ。それなのに、今も親孝行できずにいる自分を悲しく思う。

絵本の読み聞かせがどれだけ大切か。
それはよくわかった。
私の記憶では、母の声で本を読んでもらったのは、保育園までであった。
この「絵本を見る眼」という本を読んで思ったのは、小学生になっても、親は子に本を読んであげるほうがいいということだ。
小学生低学年は、まだまだちいさい子供で、大人と接することが多いほうがいい。
ご両親が読んであげる本とその時間で、小さなひとは美しい言葉を学ぶだろう。
そう思った。
ほとんど自宅で過ごす私がたまに外に用事があって出かけた時、スマートフォンの動画に子守りさせている大人を見かけると、切ないきもちになるのだが。
周囲や社会が子供が泣くということに厳しいと、簡単に泣き止む方法をとるしかないから、なんともいえない。だから、スマートフォンを使っての子守りも一概には責められない。
不思議と子連れの外国の観光客ではそれは見かけないが、日本の人では、よく見かける。なぜだろう。
スティーブ・ジョブズが自身の子供にはスマートフォンを与えなかった話は有名だ。私はジョブズのような上司は嫌だが、自分がもし親だったら、ジョブズと同じことをするだろうな、たぶん。

私個人としては、小さなひとは泣くことも多いだろうが、その時間も大切にしてほしいと思う。
その小さなひとの、その時。
それは、その時しかないからだ。
小さなひとのその時その時の積み重ねがどんな印象であったか、小さい時の記憶が後の人生は「たのしい」と感じるかどうかが決まると思っている。
小さなひとたちにたくさん幸せな記憶を作ってあげてほしい。
人生に絶望しないような、山や壁をのりこえられるような、そんな楽しくてきらきらした時間をたくさん一緒にすごして、幸せな記憶を。
人生の中で、小さなひとたちと出会えた方々は、ぜひ。
幸せの記憶があれば、人生の中で何かしらが襲ってきても乗り越えられると思っています。

そんな理由で、きれいな言葉や楽しい言葉を使うことを推奨する。
子供は音で言葉を覚えていく。

音としての「日本語」は他国からみたらどうなのだろう。
美しいのだろうか。
モーツアルトは、ドイツの出身だが歌劇をつくるにはイタリア語のほうが美しいからといって、イタリア語でつくったらしいが。
そうだなぁ。
人の声は楽器ともいえるから、音が美しい言語を選ぶという作り手は本当に優秀な人なのだなとおもう。
母国語でさえ、まともに話せないわたしはそう思った。

このところ、私はまた英語の学習をしている。
私はカタカナ発音で座学だけの英語を学んだ世代であるので、基本的な単語はどうしてもカタカナ発音の印象なのであった。
そう、これも音の記憶だ。
若い時の五感に関する記憶というものはずっと続いていたりするのだな。
英語は単語と単語の間をつなぐとき、略すと音が変わることも多いから、母国語が英語の方の質問はかなり聞き取るのに難易度があがる。対して、英語が母国語でない方の英語のほうがききとりやすい。それは、単語一つ一つを丁寧に言ってくれることが多いから。
あいかわらず、街に出ると外国の方によく道を聞かれる私だった。
ただ日本に訪れている外国の方は、基本、優秀な方々なので日本語で返しても通じることが多い。様子を見て通じていないときは、私の拙い英語で伝えるのだが。
とっさに英単語が出てくると踊りたいくらいうれしくなるのだが、ほとんどそれがないから私はアウトプットができていないのだなと反省したのだった。
多言語ができると、きっとモーツアルトのように何かしら創作物に活かせることもできるのだろうな。
何とかわたしも多言語の知識をすこしでも作品にいかしたいものだな。
そうだな、活かすなら母国語が先か!日本語は表記がカタカナ、ひらがな、漢字と三種類で表現できるからまずそこから考えたいな。
日本語は日本語の美しさ、響きがある。
未来を担う人はぜひ母国語のすごさに気が付いてほしいな。

体調がよくなって、うまく年をとれたら絵本の読み聞かせのボランティアに行きたいな。
こんな感じで、この記事は終わろうと思う。







コメント

このブログの人気の投稿

ぽつんとすること

「落雷と祝福」岡本真帆(著)、読了。