「モノが減ると心が潤う 簡単「断捨離」生活」やましたひでこ(著)、読了。

片付けをしたくなって、図書館の書架に断捨離の本を見つけた。 断捨離の本は過去に一冊しか読んでいない。 改めて”断捨離”と名がつく本を読んでみた。 片付けに関する本は数冊よんだが、それぞれの考え方がある。 「私はミニマリストではない」とおっしゃっていたやましたひでこさんの考え方がわかる本だった。 自分が楽しいと思う空間を作って、その中で生活する。 そのための断捨離なのだと。 確かに読んでいて、真似したくなるような素敵な片付け方であった。 物へ対する愛着やリスペクトを感じる。  いつものごとく、箇条書きで私の個人的な備忘録とする。 台ふきはいらない(キッチンペーパー、使い捨てタオルを使うと管理が簡単) 鍋は見てくれで選ぶ(自分が美しいと思うものを買う) 炊飯器とレンジの断捨離 ランチョンマットで演出する(おぼんでも可。自分が食べたいものをよそおう) 普段着こそ真剣に選ぶ(なりたい私の服に挑戦しよう!) シーツは三日に一度洗濯する(布団は三年に一度買い替えが理想) 緑や花は絶やさない シャンプー石鹸類はその都度もちこむ 年末の大掃除はしない(普段から片づけておくから) 書斎の机はダイニングテーブルを使用している(大きいから使いやすい!) ペン立てはオブジェとしても楽しいものを(例えばマグカップなど) バッグは毎晩呼吸させる(カバンの中身はすべて籠にだして、一日を振り返る) A5サイズノートをかばんに入れて持ち歩いている(自分が思いついたことなどを書く。用事が済んだら破って捨てる。 災害用備蓄は水2リットルを12本のみ(それも使いながら巡回させている) 上記は私の個人的な抜粋である。このほかにも、本書には素敵なことがたくさん書かれている。 二時間あれば読めるので、断捨離提唱者のやましたひでこさんの考え方が気になる方は読むといいです。 うちの家には、テレビがないのだが、やましたひでこさんの家にもなかったらしい。 ただやましたさんはテレビ出演などをされるようになってから、慌ててテレビを買いに行ったとのことだった。 私もシャンプー、メイク落とし・洗顔類などは、入浴する都度もちこむようにしている。それは禅宗のお坊さまの本(書名は覚えていない)を読んだときに、お坊さま各々が石鹸などを持ち込むようにしているとのことが書かれていて、そうするとお風呂場が汚れないとのことだったので、...

立派な最後は、

さぁ、これは読んでいる人がほぼいないブログだから。
私の気持ちの整理で書いている。

生きること
死ぬこと
どちらにも意味はなくて。

そう思うと、死んでもいいし、生きてもいい。
そう思える。
ただ自分でコントロールして死のうとすると、結構むずかしい。

場所は?
(ここで命を絶つと、後始末が大変になる。事故物件になる)
方法は?
(できたら痛くない方法でできないか)
死んだ後の世界はあるのか?
(見えない世界があって地縛霊というものがあるなら、そうなりたくないな)

私の近所には、老人施設がある。
そこは多分、国の経営ではない。
お金をそれなりにお持ちの方々が入れる施設だ。
たまにその前を通る。
私は生きるために食料の買い出しへ行く。その時の通り道に、その施設がある。
そこが見えない道を通ってもいい。
そうすると店まで少し遠回りになるから、結局、この道を通ってしまう。
そこは昼間、カーテンが開けてある。
そうすると中の様子が見える。
じっと座っている。
人生の先輩たちが話もせずにじっと座っている。
そこの食堂なのだろう。
そこはいつもシンとした空気を感じる。
どこを見ているのだろうか。
たまにテレビがついていることもあるが、見ている様子もない。
歩けるのだろうか。
もう歩くことさえ出来ないのだろうか。
椅子に座っている方もいる。
椅子ではなく車いすに座っている方は、もう足が機能をしていないのかもしれない。

立派だと思った。

どんな場所だろうと年を取ってから入る施設は、そこで死を待つことになるだろうから。
あんな風にじっと死を待つこと。
私は立派だと思った。

私は時々「死にたい」と思ってしまう。
それは誰でも人生の中で一度は思ったことがあるのではないだろうか。
私が「死にたい」と思う時は、たいてい体調が悪い時だから、体を休めてやれば次の日は気持ちが変わっていることが多い。だから、その時は気持ちから気を逸らす。
突発的に死んでしまう人がいらっしゃるが、「時間がたてば気持ちが変わる」ということを知らないのかもしれないと想像したりする。
だからもし「死にたい」と思ったかたがいたら、堪えて明日まで待ってみて欲しい。
次の日に気持ちが変わっていることがあるから。
同じ気持ちが続くようなら、それはどこかが悪いに違いないから、病気だと思う。その時はまず病院に行ってみて欲しい。そうこう気を逸らしていたら「死のう」と思っていたことがばからしくなるかもしれない。

今の私は、生きることも死ぬことも意味がないって言えるから、誰かがいのちを絶ちたいというその場に出くわしたら止めてあげられるだろうか。
切羽詰まった気持ちで「死にたい」という人に「希望があるから生きろ!」なんて言葉は言えないし。それはその人を傷つける言葉になるかもしれないから言えない。
ただ「明日まで待ってみたら気持ちが変わっているかもしれない」っていうことだけ。
私は言える。
私がそうだから。

死をじっと待てる姿、あの立派な最後。
私ももし待つしかない状況になったら、あんな風にできたらいいけど。

自分自身に
「死にたい。」
「明日まで待て。」
「何とかなるから。」
「ただの体調不良だ。」
と言いながら、何か気を逸らすことをする。
そうすると、いつのまにか朝がきて「まだまだ私はいろいろなものに感謝がたりないなぁ」って反省する。
私がどう思おうと、私の体は、私の内臓たちはしっかり動いてくれている。
朝、目覚めても動いている。たとえ「死にたい」と思っていても。
この体が「借り物だ」という考えはこういうことであろう。
自身がコントロールすること出来るはずなどなく、しっかり動いてくれているのだ。
ただ世界の大多数と比べると私の体は弱いけれど。
今日もありがとう。
なんとか朝が来て、しっかり目覚めたのだった。

意味がないけれど、見届けたい事がある。
そのあとにまた考える。
生きることも意味がない。
死ぬことも意味がない。
どちらを選ぶか。
決めるのを先延ばしにすることにした。

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